2013年01月25日

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り1

このブログは、平成22年から23年にかけて浄土真宗親鸞会において発刊された機関誌『顕真』の特集「宿善と聴聞と善のすすめ」について、「飛雲 〜親鸞会の邪義を通して」で記事になったものをまとめたものです。



『顕真』平成22年11月号に、宿善についての解説が長々と書かれています。これまでと同じ主張で、何度も間違いが指摘されながら、修正しようという気持ちが全くなく、進歩が感じられません。
絶版になった『会報』を少し変えた程度の内容です。

この中で「頓機」と「漸機」という言葉を使って宿善の厚薄を説明しています。

 宿善の厚い人を「頓機」といい、宿善の薄い人を「漸機」ともいう。
 宿善の厚い人は弥陀の救いに頓くあえるから「頓機」といわれる。それに対して宿善の薄い人を「漸機」といわれるのは、救いにあうのが遅いからである。
 丁度、枯松葉と青松葉のようなもの。枯松葉はマッチ一本で火がつくが、青松葉はプスプス水をはじいてなかなか火がつきにくい。
 同様に宿善の厚い人は、枯松葉のように凡心(我々の心)に仏心(弥陀の大慈悲心)の火がつき、仏凡一体(絶対の幸福)と救われ燃えあがるのが速い。
 宿善薄き人は聞法を重ねても、なかなか弥陀の救いにあえず、昨日もカラッポ今日も落第、どれだけ聞けば助かるのか、どう聞けばよいのかとブスブス小言ばかりいって流転を続ける。

(中略)

 しかも宿善厚き頓機は極めて少なく、宿善薄き漸機は圧倒的に多いと説かれている。

 記録に残っているものから窺っても、法然上人のお弟子三百八十余人の中、頓機は親鸞聖人と蓮生房、耳四郎の三人のみ。
 聖人の門下では明法房弁円、ただ一人である。その外にもあったであろうが甚だ少なかったから、法然上人は『和語灯録』に、
「頓機の者は少なく、漸機の者は多し」
(宿善の厚い人は少なく、宿善の薄い人がほとんどである)
と仰せられている。

とありますが、法然上人はそのようなことを仰っていないことは、すでに何度も指摘されています。
『和語灯録』には、「頓機」と「漸機」という言葉自体がありません。つまり、根拠の捏造です。「頓機」「漸機」を法然上人のお言葉で探すと、

「やさしい浄土真宗の教え」
§7 聴聞(何を「聞く」のか?)

でも紹介されているように

人の心は頓機漸機とて二品に候なり。
頓機はききてやがて解る心にて候。漸機はようよう解る心にて候なり。
物詣なんどをし候に、足はやき人は一時にまいりつくところへ、
足おそきものは日晩しにかなわぬ様には候えども、
まいる心だにも候えば、ついにはとげ候ように、
ねごう御心だにわたらせ給い候わねば、
年月をかさねても御信心もふかくならせおわしますべきにて候。
『往生浄土用心』昭法全p.562

(訳)
人の心には頓機、漸機という二つがある。
頓機というのは聞いたならばすぐにその内容を理解できる人、
漸機というのは徐々に理解していく人のことをいう。
たとえば神社仏閣へ参詣するにしても、
足の速い人は、わずかな時間でそこまでたどりつくことができるのに、
足の遅い人は一日かけても着くことができないようなものである。
しかし、そこに行こうという心があれば、
最後には必ずお参りすることができるのと同じように、
浄土に往生したいと願う気持ちさえあるならば、
時間はかかっても御信心は深くなっていくに違いない。

と別の書物にあります。しかも、親鸞会で使っているような宿善の厚薄という意味で法然上人は仰っていません。
頓機」「漸機」とは、理解能力等のことを仰っているのですから、「漸機」が「頓機」になるように努力することではありません。判りやすくいえば、「漸機」の人は「漸機」のままで、「頓機」にならなくても救われることを仰っているのです。親鸞会の宿善論とは無関係です。

根拠も解釈も全くのデタラメです。これを元にして宿善論を展開していますから、全てがおかしいのです。

頓機」として名前の挙がっている耳四郎については、これまで何度も取り上げました。
耳四郎は、強盗、殺人を平気で犯してきた人で、獲信後も泥棒を止められなかったと伝えられています。ですから、耳四郎は過去世に悪を人一倍してきて、善をしてこなかった人で、獲信後でさえも過去世からの業で犯罪を犯し続けていたのです。

しかし耳四郎は、『観無量寿経』の下品三生の救いと合致しています。

法然上人の『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

とありまして、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれているのです。これは、親鸞会の宿善論を否定するもので、浄土門では常識中の常識です。こんなことをわざわざ説明しなければならないのも情けないことで、本願寺の熱心な門徒でも知っていることでしょう。

高森会長は、『観無量寿経』も『選択本願念仏集』も読んだことがないから、矛盾にも気が付いていないのでしょうが、そのことで学の低さをよりさらけ出しています。

尤も、高森会長も講師部員も法を犯すことには抵抗がなく、過去世に善を人一倍してきた人物でないことは明らかです。その反対ですから、善悪の基準も無茶苦茶です。

このように理論も言動もおかしい親鸞会を、正しいと信じることができるのは、マインドコントロールの効いている会員だけです。従って、宿善論を押し付けようとして無視された本願寺だけでなく、一般社会からも相手にされていません。

高森会長と講師部員は、少しは恥ずかしと思った方がいいですよ。

posted by 鴻 at 05:22| Comment(0) | 教義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り2

『観無量寿経』の下品下生で説かれているのは、五逆罪を造った極悪人という最下の者の臨終という最悪の状況での往生です。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

耳四郎よりも悪い五逆罪を造ったものが、平生には善もせず、仏法も聞いていない状況で、臨終になってようやく善知識に巡り遇って、初めて阿弥陀仏を念じて浄土を願ったのです。ところが善知識から勧められるままに念仏を称えようとするものの、臨終の苦しみのために、阿弥陀仏も浄土も念じられず、口先だけのお粗末な念仏にしかならなかったのですが、10回の念仏で往生したと説かれています。

ここで釈尊が教えられていることは、阿弥陀仏の18願は、最下の極悪人の最悪の状況でも救いたもう本願だということです。したがって、十方衆生洩れることなく救われるのです。ここで注目すべきは、下品下生のものは平生も臨終にも善を勧められてはいませんし、善をしてもいないことです。

では何もしなくても、誰でも救われるのかといえば、そうではありません。阿弥陀仏の18願を教えてくれる善知識に遇って、教えを聞いて念仏を称えた人が救われているのです。

ですから、条件としては善知識、教えに遇って、教えに従わないと救われないのです。
当たり前のことですが、キリスト教を信じていても、聖道門を信じていても、18願での救いを願わなければ救われません。

この18願での救いを願うかどうかが非常に重要になります。それを「宿善」といわれているのです。存覚上人の『浄土見聞集』に

この法を信ぜずはこれ無宿善のひとなり。
(中略)
おぼろげの縁にては、たやすくききうべからず。もしききえてよろこぶこころあらば、これ宿善のひとなり。善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふごころのなきはこれすなはち摂取の心光行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。
光明は智慧なり。この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり。仏智よりすすめられたてまりてくちに名号はとなへらるるなり。

とあるのも、また蓮如上人が『御文章』で

これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
(2帖目第11通)

とあるのも、「善知識」にあって18願を聞かなければ救われることはありません。それで存覚上人も蓮如上人も一番最初に「宿善」を出されて、次に「善知識」なのです。「善知識」の後に「宿善」ではないことをよく知らねばなりません。「善知識」、18願の教えに遇う条件が「宿善」なのです。

更には『口伝鈔』第2章では

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

とあり、『御文章』でも

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。
(3帖目第12通) 

されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。
しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。
このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。
(4帖目第1通)

無宿善の機にいたりてはちからおよばず。(4帖目第8通)

とあるように、善知識に遇って、18願の教えを聞いて18願で救われたいと願う人かどうかを覚如上人は「過去の宿善あつきもの」「宿福なきもの」と表現なされ、蓮如上人は「宿善の機」「無宿善の機」と仰っています。

ですから、「宿善」があって「善知識」に遇い、18願を聞いて、その通りに救われたならば、「宿善」のあったことを慶ぶのです。それを親鸞聖人は『教行信証』総序

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ

と仰り、『浄土文類聚鈔』 にも

たまたま信心を獲ば、遠く宿縁を慶べ

と仰っているのです。

これを善の勧めと誤解させているのが親鸞会です。高森会長は華光会にいた時には、「宿善」ということは言っていないので、親鸞会という組織を作って、金集め人集めを会員にさせる口実が、「宿善」だったのです。

posted by 鴻 at 05:20| Comment(0) | 教義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り3

親鸞会は、蓮如上人の言行録である『御一代記聞書』が好きです。親鸞会の宿善論の根拠として、『御一代記聞書』からいくつも挙げられています。
『顕真』平成22年11月号にも、3つ引用されています。

【「宿善めでたし」と云うはわろし。御一流には「宿善有り難し」と申すがよく候】
                                 (御一代記聞書)
(意訳)
「『宿善めでたし』と言うのはよろしくない。親鸞学徒は『宿善有り難し』というべきであろう」

 聞き難い仏法に遇えたのは、決して自分の意志で出来たことではないのだから、「おめでとう」と言うのは適当ではない。
 絶対にあり得ないことが有ったのだから、
「有り難いことがあった」と感謝しなければならないことなのである。

と書いていますが、親鸞会でも認めている通り、「宿善」とは「自分の意志で出来たことではない」のですから、「宿善」を求めよ、と教えていることが矛盾しているのです。「絶対にあり得ないことが有った」とは、自分では求めても得られることの絶対に無いことがあった、という意味です。
自分で「宿善」を求めて、薄い「宿善」が厚くなったのならば、「宿善」を自分で得たのであり、「絶対にあり得ないことが有った」とは思えず、自分の行為により「あり得ることが有った」と思う筈です。
また、善ができなければ「宿善」とはなりませんので、1つの善もできない者と知らされることもありません。雑毒であろうが自分のやった善が「宿善」となったのですから、自分の善が獲信の少しは足しになった、としか知らされません。
こんな簡単なことさえも理解できないで、よくも支離滅裂な文章を書けるものだと感心してしまいました。

『口伝鈔』には

しかれば往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。

とありますように、「宿善」を阿弥陀仏の光明によるお育てと理解するするのが、真宗なのです。ですから、「宿善有り難し」になるのです。

実際に、宿善を求めよ、という根拠として以下の事が書かれています。

【「時節到来」という事、用心をもし、其の上に事の出来候を「時節到来」とはいうべし。無用心にて事の出来候を「時節到来」とはいわぬ事なり。聴聞を心がけての上の「宿善、無宿善」ともいう事なり。ただ信心は聞くにきはまる事なる由、仰せのよし候】
                                 (御一代記聞書)
(意訳)
「『時節到来』ということは、心がけ求めて物事が成就したことを『時節到来した』というのである。
 何にもせず心がけもせずに物事が出来上がったのを『時節到来』とは言わぬのだ。
 真剣に聴聞を心がけている人のみに『宿善・無宿善』ということがあるのである。
 信心獲得できるか否かは、ただ聞く一つで決するのである、と蓮如上人は仰せられた」

「時節到来」とか「宿善到来」というから真宗の人たちは、宿善とは向こうの方からヨチヨチやってきて宿善開発するように思っている。
 丁度、金持ちになるには福の神が来ればよいと待っているのと同じである。福の神が向こうからやってくるのではない、日々の努力精進が福の神になるのである。
 求めてのみ「時節到来」ということがあるのである。「宿善」も待っているものではなく、用心して真剣な聴聞を求めてゆくものなのだ。
 仏法は聞くにきわまると言われる所以である。

前回述べたように、「宿善・無宿善」とは、18願での救いを願うかどうかのことですから、聴聞を心掛けた上で「宿善・無宿善」ということが言えると蓮如上人が仰ったのです。
つまり、18願での救いを願う「宿善の機」ならば、聞く気持ちがありますが、18願での救いを願っていない「無宿善の機」は、親鸞聖人の教えを聞く気持ちがありません。
聴聞を「宿善を求めること」と考えるのが、そもそも間違いです。
存覚上人は『浄土見聞集』で、

聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。

と言われていますが、聴聞という自力の積み重ねで他力になるのではありません。「他力よりきき」であり、「自力のはからひちりばかりもよりつかざる」なのです。

以上のことが理解できれば、親鸞会で宿善の薄い人が厚くならなければ救われないとしている『御一代記聞書』の

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。

も判ると思います。ここは蓮如上人御愛読の『安心決定鈔』を言い換えられたもので、

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは3

で、すでに説明されています。ここでの「宿善」は信心のことを指しています。真宗では常に信心と往生との関係で教えられます。善と往生との関係でいえば、”無関係”、と教えられます。
陽気・陰気」とは、阿弥陀仏の光明によるお育てを表現されていて、18願での救いを願っている「陽気」の人は獲信が早いが、18願での救いを願わない「陰気」の人(外道を信じている人、善をしなければ往生できないと思っている人も含む)は獲信が遅い、ということです。
これを、宿善の薄い人は厚くしなければならない、と解釈するのは、獲信・往生とは別の目的で、会員に””を勧めているのです。

posted by 鴻 at 05:19| Comment(0) | 教義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り4

宿善」の基本的な意味が理解できていませんので、親鸞会がいくら根拠を挙げたところで、すべてお笑いのトンデモ解釈にしかなっていません。

『慕帰絵詞』に、覚如上人と唯善との間で行われた宿善についての論争が記されています。

法印(覚如上人)は、「往生は宿善開発の機こそ善知識に値ひて聞けば、即ち信心歓喜する故に報土得生すれ」と云々。
善公(唯善)は、「十方衆生と誓ひ給へば、更に宿善の有無を沙汰せず、仏願に遇へば、必ず往生を得るなり。さてこそ不思議の大願にて侍れ」と。

此処に法印重ねて示すやう、
「『大無量寿経』には、『若人無善本 不得聞此経 清浄有戒者 乃獲聞正法 曾更見世尊 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜 驕慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 楽聴如是教』と説かれたり。
宿福深厚の機は即ちよくこの事を信じ、無宿善のものは驕慢弊懈怠にして、此法を信じ難しといふこと、明らけし。
随ひて光明寺和尚(善導大師)この文を受けて、『若人無善本 不得聞仏名 驕慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜』と釈せらる。
経釈共に歴然、争かこれらの明文を消して、宿善の有無を沙汰すべからずとは宣ふや」と。

其の時又、唯公、「さては念仏往生にてはなくて、宿善往生と云ふべしや、如何」と。
また法印、「宿善に因て往生するとも申さばこそ、宿善往生とは申されめ。宿善の故に、知識に会ふ故に、聞く其の名号・信心・歓喜乃至一念する時分に往生決得し、定聚に住し、不退転に至るとは相伝し侍れ。是をなんぞ宿善往生とはいふべき哉」と。

その後は互ひに言説を止めけり。

簡単にいえば、唯善が、「阿弥陀仏は十方衆生を救うと誓っておられるから、宿善の有無に関係なく救われるのだ」、と主張したのに対して、覚如上人が、「宿善が有るから善知識に遇うことができ、信心決定して救われるのだ」、と反論されたのです。

覚如上人は、「宿善」を善知識に遇う因縁という意味で仰っていたことがここでも判ります。
参考までに道元禅師は『正法眼蔵』の中で、

いまわれら宿善のたすくるによりて、如來の遺法にあふたてまつり、昼夜に三宝の宝号をききたてまつること、時とともにして不退なり。

と書いていますが、曹洞宗での「宿善」も「如來の遺法にあふ」因縁としています。

ところが、善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁である「宿善」を、獲信の因縁と理解してしまったのが親鸞会です。

宿善」の説明として親鸞会で最近よく使われているのが『唯信鈔文意』

おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。

です。『顕真』平成22年12月号の巻頭言にも使われています。
このお言葉も、善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁と理解すれば、筋が通ります。
しかし、この御文の前後を見ると、少しニュアンスが違ってきます。

この御文は、善導大師の『法事讃』にある「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」の解説をされた中の一部です。ここで

 「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。
 「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。

(現代語訳)

 「随縁雑善恐難生」というのは、「随縁雑善」とは、人々がそれぞれの縁にしたがい、それぞれの心にまかせてさまざまの善を修め、それを極楽に往生するために回向することである。すなわち八万四千の法門のことである。これはすべて自力の善根であるから、真実の報土には生れることができないと嫌われる。そのことを「恐難生」といわれている。「恐」は「おそれる」ということである。真実の報土にはさまざまな自力の善によって生れることができないことを気づかわれているのである、「難生」とは生れることができないというのである。
 「故使如来選要法」というのは、釈尊があらゆる善のなかから南無阿弥陀仏の名号を選び取って、さまざまな濁りに満ちた時代のなかで、悪事を犯すものばかりであり、よこしまな考えにとらわれて真実の信心をおこすことのないものにお与えになったのであると知らなければならないというのである。このことを「選」といい、広く多くのものから選ぶという意味である。「要」はひとすじにということであり、求めるということであり、約束するということである。「法」とは名号である。

とあり、獲信のためには善を捨てて念仏を立てよ、との御教示です。その上、断章取義している先程のお言葉の次には

他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。

(現代語訳)

至心・信楽・欲生と本願に誓われている他力の信心を得た人は、決して念仏以外の善を謗ったり、阿弥陀仏以外の仏や菩薩を軽んじたりすることがあってはならないということである。

と付け加えられていますので、親鸞聖人が仰りたかったことは、獲信のためには捨てものの善ではあっても、18願の教えに遇う因縁になったのだから、善や諸仏・菩薩を謗ってはいけない、との誡めです。
従って、獲信のために善を勧められたお言葉ではありません。その逆ですが、行き過ぎて造悪無碍の邪義に陥ることを警戒されて補足されたものと判ります。
もしこれが善を勧められたお言葉というのであれば、「善根」だけを切り取らずに、「三恒河沙の諸仏」「余の仏聖」に仕えることも勧められたお言葉としなければなりません。しかしそれは絶対にいいません。”無二の善知識”たる高森会長に仕えよ、とは教えますが。

とにかく、親鸞会は断章取義ばかりですから、矛盾した論理で溢れかえっています。
意味を知ってか知らずか、誤謬が酷すぎて、外から親鸞会をみると本当に恥ずかしい団体です。

posted by 鴻 at 05:18| Comment(0) | 教義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り5

親鸞聖人は、「宿善」という言葉を御著書の中で使われていませので、真宗における「宿善」の定義は、覚如上人によってなされたといえます。

前回紹介しました『慕帰絵詞』に記された、覚如上人と唯善との論争についてもう少しみてみます。

この論争の結論については、

その後は互ひに言説を止めけり。

となっています。いわゆる玉虫色の決着です。といいますのは、覚如上人と唯善とは、「宿善」の定義が違っていたままの論争であったと思います。

覚如上人は、

宿善の故に、知識に会ふ故に、聞く其の名号・信心・歓喜乃至一念する時分に往生決得し、定聚に住し、不退転に至るとは相伝し侍れ。

と仰っているのに対して、唯善は

十方衆生と誓ひ給へば、更に宿善の有無を沙汰せず、仏願に遇へば、必ず往生を得るなり。さてこそ不思議の大願にて侍れ

との主張です。「宿善」の定義によって、両方とも正しいと言えるでしょう。
覚如上人が仰っている「宿善」とは

善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁

ということは前回述べました。
一方の唯善の定義は、

過去世の善根

という通仏教的意味です。
唯善は、過去世の善根と18願との救いは無関係であることを言われているのです。

覚如上人も『口伝鈔』で、

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし

たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。

と仰っています。過去世にどれだけ善をしてきたかどうかということは、往生・獲信とは関係がないことを強調されています。
つまり、覚如上人、唯善共に、親鸞会で教えているところの宿善論を完全に否定されているのです。

では覚如上人と唯善との根本的な違いは何かということになりますが、それは前々回紹介しました『口伝鈔』

しかれば往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。

です。覚如上人は「宿善」を阿弥陀仏の光明によるお育て、と定義されているのです。
それを蓮如上人も引き継がれて、『御文章』2帖目第13通

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。

と仰っています。
阿弥陀仏の慈悲は平等でも、機がそれぞれ違うために、「宿善の機」「無宿善の機」と差ができてしまうのです。

覚如上人、蓮如上人が仰っている「宿善の機」とは、18願での救いを願い求めている人のことであり、「無宿善の機」とは、18願での救いを願わない人のことです。
宿善の機」と「無宿善の機」の違いは、18願での救いを願うかどうかです。

善知識に遇わず、18願の教えに遇わなければ、救われることはありません。
宿善の機」とは善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁のあった人です。
無宿善の機」は善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁のない人、もしくは遇っていても信じる気持ちがなければこの因縁のない人です。

したがって、「宿善の機」に対してと「無宿善の機」に対しての話が違ってくるのは当然なことです。それで『御文章』3帖目第12通

されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

と仰っているのです。

以上を踏まえれば、釈尊が八万四千の法門といわれる多くの方便を駆使された理由も、阿弥陀仏が19願、20願を建てられた理由も判る筈です。

18願を信じられない、18願を願う気のない「無宿善の機」に、18願を説いても誹謗するだけです。そのために、18願を信じて願い求める気持ちにさせるまでの手立てとして、権仮方便の聖道門、19願、20願が必要であったのです。
しかし、すでに18願を信じて願い求めている「宿善の機」には、わざわざ遠回りをさせる必要がありませんので、「宿善の機」に対しては18願1つを説き聞かせるのが善知識の役割になります。

親鸞会では、信前の人は同じ方便の道を通らなければならないと教えていますが、機が違うのですから、すべての人が同じ方便の道を通ることにはなりません。人それぞれ機が違いますので、釈尊は機に応じて「八万四千の法門」を説かねばならなかったのです。親鸞会でも対機説法という言葉は知っていますが、その意味を知らないのでしょう。

無宿善の機」に対して説かれた「八万四千の法門」を「浄土の方便の善」「要門」「仮門」とまとめて仰ったのが、親鸞会の好きな『一念多念証文』のお言葉です。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

権仮方便である「八万四千の法門」は「無宿善の機」に対して説かれ、真実18願は「宿善の機」に対して説かれていることも理解できないのですから、親鸞会はお粗末極まりないと言わざるを得ません。

これでも判らない人は、蓮如上人のお言葉をしっかり読んで理解しておきましょう。

この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

posted by 鴻 at 05:17| Comment(0) | 教義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。