最近の親鸞会では、なぜ”善の勧め”の根拠になるのか判らない『末灯鈔』のお言葉をしつこく出しています。『顕真』平成23年5月号にもあります。
煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。
どこをどう読んだら”善の勧め”になるのでしょうか。思考停止の会員は、何を出してどうせ読まないのだから、と高森会長は会員を馬鹿にしているのです。
この御文は、悪人正機の本願であるからどれだけ悪をしても構わない、という邪義に対して、その誤りを正されたものであり、止悪のことまでしか仰っていません。
もし、親鸞聖人が往生・獲信のために善を勧められていたとするならば、このような邪義が出てくること自体おかしなことです。
親鸞聖人の”善の勧め”に反していたとした場合の言い方は、
今まで善をせよとあれだけ言ってきたのに、どんな聞き誤りをしているんだ。悪をしてもよいどころか、命懸けで善に励むに決まっているだろう。
ということになるでしょう。少なくとも善に励むよう勧める文がある筈ですが、それがなく、悪を止めるようにしか仰っていません。
このことから、親鸞聖人は往生・獲信のために善を勧められていないことが判ります。
つまり、親鸞会が出した『末灯鈔』のお言葉は、”善の勧め”を否定する根拠でしかありません。
親鸞聖人の御心を想像しますと、表現に悩まれたのだと思います。
悪に誇っている人に対して、悪を止めて善に励むよう勧めることは、仏法者として当然なことですが、そのような言い方をしますと往生・獲信と善とが関係あるような誤解が生じます。雑行・雑善を捨てよ、と厳しく教えられたことと矛盾しているように受け止められかねませんので、親鸞聖人はこのような止悪の表現になされたのだと思います。
蓮如上人もそれに苦慮されて
でも述べたように、『御文章』3帖目第13通に、
それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、(中略)そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。
と表現されているのだと思います。信前信後を問わず「仁義をもつて本」とせよ、とは儒教の倫理道徳の善を勧められたものです。この善を往生・獲信と関連づければ世福になりますので、誤解を生じる可能性も否定はできませんが、蓮如上人は「後生のためには」と別にされていることで、その危険性を回避されているのです。
以前にも述べましたが、一応世福について再度説明しておきます。
いま三福といふは、第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。ゆゑに世俗の善と名づく。
(現代語訳)
今三福というのは、第一福は、世間の善根であり、いまだかって仏法を聞かない人が、その性質が善であるので、自然に孝養・仁・義・礼・智・信を行ずるから世間の善と名づける。
とありますように、倫理道徳の善は世福になるのですが、『往生礼讃』に
中輩は中行中根の人なり。一日の斎戒をもつて金蓮に処す。
父母に孝養せるを教へて回向せしめ、ために西方快楽の因と説く。
仏、声聞衆と来り取りて、ただちに弥陀の華座の辺に到る。
百宝の華に籠りて七日を経。三品の蓮開けて小真を証す。(現代語訳)
中輩は中行を修める中根の人である 一日の斎戒をもって金蓮華に乗る
父母に孝養する善を教えて回向させ 西方に往生する因と説く
仏が声聞衆とともに来たり迎え ただちに弥陀の蓮華座のほとりにいたる
百宝の華に包まれて七日を経る 三品ともに華が開けて小乗のさとりをひらく
とありますように、倫理道徳の善を回向するから世福になるのです。回向しなければ単なる倫理道徳の善です。
つまり、倫理道徳の善を往生・獲信と関連付けなければ雑行にはならず問題はないのです。
親鸞聖人、蓮如上人は上記のようにぎりぎりの表現をされているのですが、万が一誤解したとしても、倫理道徳の善を往生・獲信と関連付けて世福を勧める程度になる筈ですが、高森会長はこともあろうに行福である六度万行(特に布施)を強要しているのですから、誤解とかの範疇を遥かに超えているのです。明らかに、故意に教えをねじ曲げているのです。
高森会長から話を何十年聞いても獲信できないのは、当たり前のことです。捨てるべき雑行を拾わせているのですから。