『顕真』では、釈尊と韋提希とのやりとりについて、創作アニメと表現を変えているところがあります。よく読んでみると、大沼師の『方便より真実え 浄土真宗』からのパクリでした。とことん節操のない団体です。
2つを並べてみましょう。
『顕真』の続き
『観無量寿経』には、王舎城の悲劇の主人公、心想るい劣の韋提希夫人に、「弥陀の浄土へゆきたくは定善をせよ」と、まず、釈迦は定善十三観を説かれている。
頭から、”極悪人のそなたに何ができるか”と本当のことを言っては、どんな者でもハラを立てて聞かないから、初めは、善人扱いされている。そして”そなたに定善できるかな”と、相手の心を慎重に窺っていられるのである。韋提希は釈迦の説法中も、「あんな不孝者の阿闍世を育てるでなかった」「あの提婆さえいなかったら」と、心の中で彼らを切り刻み惨殺している。
”これでは、心を静めて、阿弥陀仏を念ずる定善どころではない”と、韋提希は深く反省せずにおれなくなる。
そんな韋提希に”定善ができねば散善を”と、釈迦は、九品を並べてみせられる。
上品上生は、とてもじゃないが、中品下生の父母の孝養さえおぼつかない。
誰よりも、かわいいはずの吾子でさえも、心の中では殺している。親など殺すは朝飯前の自己を知らされ、韋提希夫人は恐れおののく。定善、散善ともに落第。箸にも棒にもかからぬ下品下生の極悪人と照らしだし、弥陀の十八願、真実の救いに値わすのが、『観経』一巻の教説である。
一方、『方便より真実え 浄土真宗』では、
『観経』でも、浄土が見たければ定善観をせよと十三観を説き、韋提希の腹を照らして見せておられるのです。お前は定善ができるかいと心を覗いて見らるると、釈尊の説法を聞きながらも、阿闍世を育てるのではなかった。提婆の奴が阿闍世をそそのかして、私をこんなめに逢わしていると、心のなかでは相手をむしり殺しているではないか。これでは到底、観念のできる柄でないことを自覚するのです。観念ができないとすれば、散善をせよと九品を並べてみせられるが、自分は上品上生は及びもつかない、中品下生の孝養父母さえもできない、大切な自分の子供さえも心のなかで殺しているのだから、親など平気で殺しているのだ。詮じつめてみれば、自分は下々品の人間ではないか。それなら定善散善ともにできない、箸にも棒にもかからぬ人間だと自覚さして、こんな悪性な人間は、念仏より他に救われる道がないと自覚さすのが、釈尊の調機誘引の説法ではありませんか。
誰が見ても言い訳のできない明らかなパクリでしょう。使えるものは何でも使うの理念は結構ですが、これだけパクリについて非難されていながらも、なおパクリ続ける。しかも『方便より真実え 浄土真宗』を直接読んだのではなく、当ブログの5月28日のエントリー
を読んでのパクリでしょうから、余りと言えば余りの節操のなさです。
『観無量寿経』でも、また創作アニメでさえも韋提希は散善を実践していないのですから、『顕真』との整合性が取れないのです。
大沼師は善ができると自惚れている人が善のできないと知らされる過程を、便宜上韋提希に置き換えて敢て説明をしただけなのですが、それを韋提希個人の体験として話をしたら矛盾以外の何物でもありません。韋提希は、定善もしていませんし、散善を説かれる前に獲信しているのですから、散善もせず、散善のできないものと知らされて救われたのではありません。当たり前のことです。
会員は、この『顕真』の説明を読んで、アニメとの違いを疑問に思わないのでしょうか?
後の問答でも、韋提希が散善を実地にやらせで落第であることを知らせたとあります。
トップが狂っていますから、言うこともころころ変わりますし、この原稿を書いた講師部員も大沼師の著作をパクッて、本当に狂っています。
くどいようですが、一応説明しておきますと、龍樹菩薩のように聖道門の修行ができる方もあれば、善導大師のように定善ができる方もありますし、親鸞聖人が仰っている上品上生の往生を遂げられた智覚禅師のような方もあるのです。聖道の修行のできる人に聖道門を説かれ、定善のできる人に定善を説かれ、散善のできる人に散善を説かれた対機説法ということです。どこにも何の矛盾もありません。
実際、『観無量寿経』は韋提希だけに説かれたのではなく、『法華経』の説法を聞いていた聴衆にも説かれているのです。
でも書きましたが、『観無量寿経』は韋提希のいる牢で説かれた後、耆闍崛山で再度説かれています。
そのときに世尊、足虚空を歩みて耆闍崛山に還りたまふ。そのときに阿難、広く大衆のために、上のごときの事を説く
(現代語訳)
こうして釈尊は大空を歩んで耆闍崛山にお帰りになり、阿難は山上で、そこに集うすべてのもののために、この釈尊の教えを説き聞かせた。
定散二善が、聖道門の人のために説かれていることは、ここでも判ります。定散二善は聖道門の人、定散諸機のために説かれ、念仏は悪人のために説かれていることが『観無量寿経』を読んでも判ります。
猿でも判るように言えば、『観無量寿経』は聖道門の人や善凡夫に定散二善を説かれ、悪凡夫には念仏が説かれてあるということです。これを間違えて、悪凡夫の為に定散二善を説かれたと珍解釈をして信じているから、信心決定できないのです。
これを法然上人は『勅伝』で
上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」
と御教説くださっているのです。
『観無量寿経』も『観無量寿経疏』も読んだことがなく、また読めるだけの能力もなく、大沼師の著作を当ブログからパクルことしかできない無能集団では、今回のエントリーも理解不能でしょう。