2013年01月24日

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り23

『顕真』では、釈尊と韋提希とのやりとりについて、創作アニメと表現を変えているところがあります。よく読んでみると、大沼師の『方便より真実え 浄土真宗』からのパクリでした。とことん節操のない団体です。
2つを並べてみましょう。

『顕真』の続き

『観無量寿経』には、王舎城の悲劇の主人公、心想るい劣の韋提希夫人に、「弥陀の浄土へゆきたくは定善をせよ」と、まず、釈迦は定善十三観を説かれている。
 頭から、”極悪人のそなたに何ができるか”と本当のことを言っては、どんな者でもハラを立てて聞かないから、初めは、善人扱いされている。そして”そなたに定善できるかな”と、相手の心を慎重に窺っていられるのである。

 韋提希は釈迦の説法中も、「あんな不孝者の阿闍世を育てるでなかった」「あの提婆さえいなかったら」と、心の中で彼らを切り刻み惨殺している。
”これでは、心を静めて、阿弥陀仏を念ずる定善どころではない”と、韋提希は深く反省せずにおれなくなる。
 そんな韋提希に”定善ができねば散善を”と、釈迦は、九品を並べてみせられる。
 上品上生は、とてもじゃないが、中品下生の父母の孝養さえおぼつかない。
 誰よりも、かわいいはずの吾子でさえも、心の中では殺している。親など殺すは朝飯前の自己を知らされ、韋提希夫人は恐れおののく。

 定善、散善ともに落第。箸にも棒にもかからぬ下品下生の極悪人と照らしだし、弥陀の十八願、真実の救いに値わすのが、『観経』一巻の教説である。

一方、『方便より真実え 浄土真宗』では、

『観経』でも、浄土が見たければ定善観をせよと十三観を説き、韋提希の腹を照らして見せておられるのです。お前は定善ができるかいと心を覗いて見らるると、釈尊の説法を聞きながらも、阿闍世を育てるのではなかった。提婆の奴が阿闍世をそそのかして、私をこんなめに逢わしていると、心のなかでは相手をむしり殺しているではないか。これでは到底、観念のできる柄でないことを自覚するのです。観念ができないとすれば、散善をせよと九品を並べてみせられるが、自分は上品上生は及びもつかない、中品下生の孝養父母さえもできない、大切な自分の子供さえも心のなかで殺しているのだから、親など平気で殺しているのだ。詮じつめてみれば、自分は下々品の人間ではないか。それなら定善散善ともにできない、箸にも棒にもかからぬ人間だと自覚さして、こんな悪性な人間は、念仏より他に救われる道がないと自覚さすのが、釈尊の調機誘引の説法ではありませんか。

誰が見ても言い訳のできない明らかなパクリでしょう。使えるものは何でも使うの理念は結構ですが、これだけパクリについて非難されていながらも、なおパクリ続ける。しかも『方便より真実え 浄土真宗』を直接読んだのではなく、当ブログの5月28日のエントリー

パクリでもない『観無量寿経』とは無関係のお伽話

を読んでのパクリでしょうから、余りと言えば余りの節操のなさです。
『観無量寿経』でも、また創作アニメでさえも韋提希は散善を実践していないのですから、『顕真』との整合性が取れないのです。
大沼師は善ができると自惚れている人が善のできないと知らされる過程を、便宜上韋提希に置き換えて敢て説明をしただけなのですが、それを韋提希個人の体験として話をしたら矛盾以外の何物でもありません。韋提希は、定善もしていませんし、散善を説かれる前に獲信しているのですから、散善もせず、散善のできないものと知らされて救われたのではありません。当たり前のことです。

会員は、この『顕真』の説明を読んで、アニメとの違いを疑問に思わないのでしょうか?

後の問答でも、韋提希が散善を実地にやらせで落第であることを知らせたとあります。
トップが狂っていますから、言うこともころころ変わりますし、この原稿を書いた講師部員も大沼師の著作をパクッて、本当に狂っています。

くどいようですが、一応説明しておきますと、龍樹菩薩のように聖道門の修行ができる方もあれば、善導大師のように定善ができる方もありますし、親鸞聖人が仰っている上品上生の往生を遂げられた智覚禅師のような方もあるのです。聖道の修行のできる人に聖道門を説かれ、定善のできる人に定善を説かれ、散善のできる人に散善を説かれた対機説法ということです。どこにも何の矛盾もありません。
実際、『観無量寿経』は韋提希だけに説かれたのではなく、『法華経』の説法を聞いていた聴衆にも説かれているのです。

王舎城の悲劇が善巧方便

でも書きましたが、『観無量寿経』は韋提希のいる牢で説かれた後、耆闍崛山で再度説かれています。

そのときに世尊、足虚空を歩みて耆闍崛山に還りたまふ。そのときに阿難、広く大衆のために、上のごときの事を説く

(現代語訳)

こうして釈尊は大空を歩んで耆闍崛山にお帰りになり、阿難は山上で、そこに集うすべてのもののために、この釈尊の教えを説き聞かせた。

定散二善が、聖道門の人のために説かれていることは、ここでも判ります。定散二善は聖道門の人、定散諸機のために説かれ、念仏は悪人のために説かれていることが『観無量寿経』を読んでも判ります。

猿でも判るように言えば、『観無量寿経』は聖道門の人や善凡夫に定散二善を説かれ、悪凡夫には念仏が説かれてあるということです。これを間違えて、悪凡夫の為に定散二善を説かれたと珍解釈をして信じているから、信心決定できないのです。
これを法然上人は『勅伝』で

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

と御教説くださっているのです。

『観無量寿経』も『観無量寿経疏』も読んだことがなく、また読めるだけの能力もなく、大沼師の著作を当ブログからパクルことしかできない無能集団では、今回のエントリーも理解不能でしょう。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り24

『顕真』平成23年6月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」には、疑難と答えが3つありますが、1つ目については前々回と前回で述べました。後の2つは共に、「雑行」についてです。
いつものヘンテコ理論ですが、一応紹介しておきます。

(疑難)
「親鸞聖人は、雑行を捨てよと教えられているのだから、諸善をする必要はない。善を勧めるのは間違いだ」

(答え)
 真宗の人々に、こんな誤解が多い。もし、これが浄土真宗の教えならば、布施(親切)や精進(努力)、父母の孝養などは、必要ないからするなという、放逸無慚な怠け者を作るのが親鸞聖人の教えになるだろう。
 これらはみな、仏法で説く諸善であるからだ。

 これは全く、「雑行」というものを知らない人の発言であることは明らかだが、こんな聞き誤りが、結構多いのが現状である。
 その元は、どこにあるのか解明しよう。

「雑行」とは、「弥陀の往生浄土の救いを求めてする、もろもろの善」をいうのである。
 仏教で説かれる「諸善」が、悪いはずがないのだが、なぜその「諸善」を、「雑行」と嫌い、捨てよと言われるのか。

 それは「自力の心」で行うからである。「自力の心」さえ廃れば、「諸善」は「雑行」とも言われず、捨て物でもなく、「御恩報謝の行」となり、身を粉に骨砕きてもの、恩徳讃の活動になるのだ。

当ブログをしっかり読んでいる割には、以前と全く同じことしかいえないのですから、やはり無能集団なのでしょう。

「雑行」と「自力の心」については当ブログで5月に集中的に解説しておきました。

「雑行を捨てよ」とは、親鸞会の主張する善の勧めを捨てよ

親鸞会の主張を徹底的に否定されたのが親鸞聖人

「雑行を捨てよ」だけで、親鸞会を簡単に論破できます

雑行の意味も知らない喜劇の主役

18願の「十方衆生」の意味さえ知らない

後生のためには「善をするな、やめよ」と仰った善知識方のお言葉

高森会長の雑行の勧め

高森会長の布教の目的は、名利以外にはあり得ない

これらを読みながら、同じことしか言えないのですから、これ以外には、ヘンテコナ譬え以外は思いつかないような知能なのです。「雑行」というものを知らない人のために、高森会長が過去にどんなことを書いているのか覚えていないでしょうから教えてさしあげます。
『会報』5集には

雑行とは第十九願では修諸功徳『観無量寿経』では定散二善、三福九品、その他では諸善万行、六度万行、万行諸善、一切諸行といわれているものである。

と書いています。今ではいろいろと訳の判らないことを言っていますが、『会報』に書いてある通りのものが「雑行」なのですから、高森会長も講師部員も「雑行」を勧めていることは名実共に間違いないことなのです。
もちろん、高森会長は自分で何を書いたのかよく判っていないと思います。なぜならこれも盗作だからです。

大沼師の『法界』には

雑行とは第十九願では修諸功徳、観経では定散二善、三福九品、その他では諸善万行、六度万行、万行諸善、一切諸行である。

とあります。見事に一致しています。理解もせずにまる写しているから突っ込まれるのですが、19願、定散二善、諸善万行は、「雑行」以外の何物でもありません。一応説明しておきますと、これらの「雑行」は、「自力の心」を必ず伴うものです。「自力の心」なしでは成り立ちません。

「自力の心」のない善を、世俗の善というのです。ですから、蓮如上人は『御文章』3帖目第13通に、

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、(中略)そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

という言い方で、倫理道徳である儒教の善を往生・獲信とは無関係に勧められているのです。『顕真』でいっているように、仏教で説かれる「諸善」を勧められていないのです。なぜなら、それが「雑行」であるからです。
従って、親鸞会がもし本気で善を勧めたいのであれば、蓮如上人と同様に、儒教の善(仁・義・礼・智・信)を勧めるでしょう。しかし、これらは言葉では勧めていても、実際には”後生の一大事のためには、世間事を犠牲にしてでも”と倫理道徳の善を反故にする”悪の勧め”となっているのです。

当ブログでは、根拠に基づいてしか説明をしていません。その根拠に明白に反する主張を高森会長と親鸞会が続けているのには、理由があります。
倫理道徳の善では、お金も人も集められないからです。実に判りやすい思考です。

親鸞聖人、蓮如上人の教えられた通りに話をするつもりが少しでもあるならば、

・三願転入の教え
・宿善論
・善をしなければ信仰が進まない
・微塵の善もできないものと知らされるまで善に励まなければならない

などの「自力の心」を捨てて、法律を守り、親兄弟子供を喜ばせ、職場や学校の関係者から好かれるような言動をしなさい、ボランティアに積極的に参加しましょう、と言えばいいのです。

まあ、盗作・浄財の私的流用・不倫・万引き・惨敗法論の捏造改竄等を平気で行っているような面々には、無理な話ですね。頭の中は、どうやって会員を騙し続けて、お金を捲き上げるか、しかないのです。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り25

『顕真』平成23年6月号では、前回に紹介したヘンテコ理論の後に、これまたヘンテコ譬え話を出して、詭弁に勤しんでいるようですが、余りにもレベルが低いので譬え話は省略します。どうしても知りたい方は、

「親鸞会のトリック」
暗示にかけようとする表現~『顕真』6月号から~

で譬え話が1つだけ取り上げられていますので、読んでみて下さい。

「雑行」についての結論として、『顕真』6月号では以下のことを書いています。

 微塵の善もできず、十方諸仏に見捨てられた極悪人と知り抜いた弥陀が、「われ一人助けん」と立ち上がり、「われを たのめ、必ず救う」と誓われて、幾億兆年の修行の末、十方世界の善根を南無阿弥陀仏の中に結実し、「どうか、そのまま受け取ってくれ、お前一人のために創ったのだ」と、今現在、叫び続けられているのである。

 その弥陀の本願を疑い、悪しかできぬ者とは微塵も思えず、何とかすれば、何とかなれると自惚れている心を「自力の心」というのである。
 古より、「弥陀を殺すに刃は要らぬ、腐った頭で考える」といわれる。
「弥陀の救いに、己の善を役立たせよう」とする「自力の心」こそが、阿弥陀仏を殺す凶刃なのである。
「雑行を捨てよ」とは、この「自力の心」を捨てよということであって、「もろもろの善をするな」「諸善を捨てよ」ということでは断じてないことを牢記しなければならない。

(原文)
 【
仏智うたがう罪ふかし
  この心おもいしるならば
  くゆる心をむねとして
  仏智の不思議をたのむべし

         (正像末和讃)
(意訳)
 「弥陀の本願を疑うほど
  恐ろしい大罪はなし
  その罪をふかく懺悔して
  本願の不思議を信ずべし」

ここの部分の字面だけを見れば、間違っていないように錯覚するかも知れませんが、「腐った頭で考えた」文章になっています。

まず、「微塵の善もできず、十方諸仏に見捨てられた極悪人と知り抜いた弥陀」とありますが、これは誰のことでしょうか?またこの善とは何でしょうか?
十方衆生が下品下生ということを親鸞会では強調していますので、これはすべての人のこととして言っている筈です。そうなると

『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

は、嘘になります。龍樹菩薩が極悪人だなどというのは、外道の者の言葉でしょうし、智覚禅師が上品上生の往生を遂げられたと親鸞聖人が仰ったのも、嘘ということになります。大体、十方衆生が五逆謗法の者であると仰った善知識方は一人もありません。

これまでにこの間違いを何度も指摘しているのに、「必堕無間」と脅しをかけなければならないので、どうしても修正できないのでしょう。

また、「微塵の善もできない」の「善」とは、どんな善のことでしょうか?
これについては、いつも曖昧な説明ですが、「真実の善はできないが雑毒の善はできる」というのが高森会長の主張ですから、この高森会長の言葉を信用するなら、「真実の善は微塵もできない」という意味になって、「雑毒の善である定散二善はできる」ということになります。韋提希は定散二善ができなかったと説明していますが、結局私たちには「雑毒の善である定散二善はできる」ということで、韋提希と私たちとは違うことになり、矛盾が生じますが、どういうことでしょうか?まさか、定散二善が真実の善だとでも思っているのでしょうかね。
何度も教えてさしあげているように、下品上生以下は、雑毒の善もできない者のことですから、雑毒の善ができる人は、中品下生以上になります。

雑毒の善ができる下品下生???

ここで詳しく述べましたが、これについても一切反論できません。
高森会長の言っていることは、とにかく矛盾しかないのです。マインドコントロールされた会員以外には通用しない腐った理論です。

ついでに教えておきますと、『観無量寿経』の中で、頻婆娑羅王は目連尊者から八斎戒を授けられ、阿那含と成っています。詳しくは

釈尊はなぜ韋提希のもとへ行かれたのか?

で解説しましたが、つまり頻婆娑羅王は阿那含と成れる善人であったということです。韋提希とは明らかに機が違うのです。対機説法の意味が少しは理解できましたか、高森会長。

以上でもお判りのように、「弥陀を殺すに刃は要らぬ、腐った頭で考える」の珍教義が高森邪義なのです。

微塵の雑毒の善もできない極悪人には、「他の方便なし、ただ弥陀を称せよ」しかないのです。当たり前の理屈が判らないのが、腐った頭です。

最後に挙げている『正像末和讃』も、意味も判らず適当に出して会員を騙そうとしているのでしょうが、解釈が根本的に間違っています。
この御和讃は誡疑讃と呼ばれる二十三首の最後の御和讃です。
誡疑讃は、19願・20願を信じていることを「仏智うたがう罪ふかし」と厳しく誡められたもので、19願・20願を信じている人は報土往生はできない、化土往生しかできないことを、くどいほど教えられています。
つまり、これらの御和讃は、三願転入の教えとかいって、19願の実践に拘っている親鸞会の会員に対して、19願を捨てて、18願1つを早く信じなさい、と教えられた親鸞聖人のお言葉です。

腐った頭で考えた腐った教えを会員は聞かされ続けていますから、高森会長を捨てない限り、自力の心が廃ることはあり得えないことを牢記しなければならない。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り26

『顕真』平成23年6月号では、疑難と答えがもう1つありますが、2番目の「雑行」についての続きで、その根拠が、創作アニメといつもの親鸞会理論だけです。文証はありません。

愚かな理論ですが、一応紹介しておきます。

「雑行」や「自力の心」と言われるものは、後生が問題になり、弥陀の救いを求めて初めて現れるものだから、後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベルでは、チンプンカンプン分かるものではないのである。

 ちょうど、ヨチヨチ歩きの女の子に、産前はこうだ、産後はああだと言っても、チンプンカンプンと同じこと。
 後生が苦になり驚いて、弥陀の救いを求める心(自力の心)が起きるまで、信仰が進んでもいないのに、「雑行」を捨てよも、拾うもあったものではない。チンプンカンプン、そらごとたわごとでしかないのだ。

 だから「雑行」は、弥陀の救いに諸善を勧める、十九願よりしか現れようがないのである。
 その「雑行」が分からぬのは、十九の願の門戸にも立っていない証しであろう。
 この弥陀・釈迦の「方便の善」が分からねば、「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ」「諸善は必要ない」と、誤解するのも無理からぬことといえよう。

 七高僧が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」ではなく、何とかすれば、何とか助かると思って、諸善万行をやっている「自力の心」のことである。

と書いています。相変わらずですが、教学が無くても常識的に考えればおかしさに気が付かれると思います。

親鸞聖人、蓮如上人当時と比較してみました

でも書きましたが、親鸞聖人、蓮如上人がおられた当時の日本の人口は現代の15分の1から20分の1くらいでした。その中で親鸞聖人の教えを聞いていた人が関東だけで数万人、蓮如上人の時はそれ以上の人に話をされていたと思われます。親鸞会とは比べ物にならない多くの人に対して、親鸞聖人、蓮如上人は、往生・獲信のために善を勧められていません。親鸞会理論でいえば、当時の人は「後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベル」の人はいなかった、あるいはいても、数えるほどしかいなかったということなのでしょう。もっといえば、親鸞聖人、蓮如上人は御著書、お手紙を後の人の為にたくさん残しておられますが、後の人は「後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベル」の人はいない、あるいは無視された、ということになります。
一方で現代の人、特に親鸞会会員は、「後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベル」の人ばかりだから、善を勧めなければならないのだそうです。これに納得できる人は、自称本願寺の布教師と同じ知能レベルの人でしょう。

雑行が判らなければ雑行は捨てられない、など幼稚な騙しでですが、そのことはすでに

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り10

でも書きましたが、たとえていえば、

・タバコを吸わせて体に悪いことを知らせてからでなければ、タバコをやめさせることはできない。
・麻薬や覚醒剤をやらせて、心身ともにボロボロになってからでなければ、麻薬や覚醒剤をやめさせることはできない。
・自殺をさせてみてからでなければ、自殺を止めることはできない。

と言っているのと同じです。

これまで何回か紹介していますが、『一念多念証文』

「一心専念」といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

『御文章』2帖目第9通

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。

しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。

が親鸞会ではチンプンカンプンなのでしょう。「余の善」と「余の仏」とは同格です。「一切の諸神・諸仏・菩薩」と「万善万行」とは同格です。
諸善に向うことも、諸神・諸仏・菩薩に向うことも共に「雑行」です。諸神・諸仏・菩薩は、親鸞会でも最初に捨てよと教えていますが、往生・獲信のために諸善をせよ、というのは、矛盾です。
なぜなら、五雑行が問題になっていない会員には、問題になるまで五雑行を勧めねば筋が通りません。筋を通すならば

寝ているものに転んだということがないように、五雑行をしていない者に、五雑行を捨てたということはありません。

となる筈ですが、これは絶対に言いません。仏教では、阿弥陀仏以外の諸仏に礼拝、称名、讃嘆、供養することも勧められていますので、諸善万行だけを往生・獲信のために勧める理由が見当たりません。

親鸞聖人は御自身の体験を『教行信証』後序

しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。

と仰っています。「自力の心を捨てて」ではなく、「雑行を捨てて」と仰ったのは、「雑行」を勧めている聖道門の学僧に対する反論のお言葉です。ここで親鸞聖人は「」ではなく「」自体を捨てられて18願に救われたことを宣言なされ、法然上人の三選の文

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

の正しさを証明されたのです。
法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が捨てよと仰る「雑行」は、「諸善」「万行」そのものの「」です。それを踏まえた上で、往生・獲信と無関係なこととして世間の善である倫理道徳を本としていきなさいと教えられているのです。

従って、紅楳英顕師が30年も前に指摘されている

「破邪顕正や財施を獲信のための宿善として修せよ」とある文証は、未だに何等示されていない。

は、今でも有効なのです。出世間の善である「破邪顕正や財施」を「獲信のため」に勧められた文証を、30年後の今、示したら如何でしょうか、高森会長。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り27

『顕真』平成23年7月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」が余りにも余りにも酷過ぎます。読むに堪えない内容ですが、シリーズものでこれまで述べてきましたし、既に「安心問答」でも取り上げられていましたので、無視する訳にもいかず、一応一通り論破しておきます。

疑難と答え4
蓮如上人と三願の教示

(疑難)
「蓮如上人には、三願転入の教えがないのではないか」

(答え)
 蓮如上人も、弥陀の十八・十九・二十の三願を、こう説かれている。

 弥陀に救われる(信心獲得)までの道程で、弥陀の救いを求めて行っている諸善(十九願)を「雑行」とし、名号を称える功徳(二十願)などで助かろうとしている五正行を「雑修」と説かれている。
 それらの雑行(十九願)や雑修(二十願)に共通するのが、自力の心(十八願を疑っている心)であるから、『御文章』には、
【もろもろの雑行・雑修・自力の心をふりすてて】
無碍の一道(十八願)まで進みなさいと、常に教導されているのが、蓮如上人である。

 文証は多数に上るが、一、二だけを挙げておこう。

【諸の雑行・雑修・自力なんどいう悪き心をふりすてて、一心に深く弥陀に帰する心の疑なきを真実信心とは申すなり】(御文章)
【もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として―乃至―往生は治低せしめたまう】(御文章)
【もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」とたのみ申して候】
                   (領解文)

 これみな蓮如上人の、三願転入のご教導でないものはないのである。

 これらのご文からも分かるように、雑行・雑修・自力の心とは何かを心得ている者に、蓮如上人は仰っているのである。
 ナイフという物を知らない者に、ナイフを捨てよと言ってもナンセンスになろう。
 雑行の意味を知らない者に、雑行を捨てよと言われるはずがなかろう。

 また、煙草をのまない人に、煙草の害毒を説く人がいないように、雑行をやってもいない者に”雑行を振り捨てよ”と言われるはずがない。
 当然ながら「雑行を捨てよ」と言われるのは、現に「雑行」を行っている人にである。

如何でしょうか。これを読んで、どこがおかしいか判らないという人は、マインドコントロールの中にいる人か、思考が著しく後退した人のどちらかでしょう。

詭弁を見破る訓練と思って、よく考えて下さい。
この理論を簡単に言えば、

蓮如上人が「雑行を捨てよ」と仰っている対象は「雑行をやっている人」だけで、「雑行をやっていない人」に対しては、文底に「雑行をやれ」と仰っているのだ

ということです。この文底の根拠が、ナイフと煙草の譬えだけです。聖教上の御文は挙げていません。というよりも、挙げることはできません。全く無いからです。それで譬えで誤魔化そうというものです。

つまり詭弁は、この譬えにあります。

ナイフという物を知らない者に、ナイフを捨てよと言ってもナンセンスになろう。

書いてあるとおりです。ナイフを持っていなくてもいいのです。ナイフがどんな物か知っていればいいのです。
通り魔の犯人と警察官に疑われた時に、その警察官は言うでしょう、「ナイフを捨てよ」と。その時ナイフを持っていなければ、「ナイフは持っていません」と答えるだけです。まさか、ナイフをどこかから調達してきて、「このナイフを捨てればいいのですか」と聞く人はいません。

煙草をのまない人に、煙草の害毒を説く人がいないように

煙草については、皆さん、中学・高校の時に、よく言われませんでしたか、「煙草は体に悪いし、法律で禁止されているから煙草をのんではいけません」と。煙草をのんでいる中学生・高校生にだけ、煙草の害毒を説かれ、禁止されたのですか、違いますよね、煙草をのんでいない多くの中学生・高校生に対して、「煙草をのんではいけません」と先生から諭された記憶がないのでしょうか。

以前に、覚せい剤や自殺を止める場合についても述べましたが、世の中で禁止されていることは、それをしていない大多数の人に対してのものです。

今話題の著作権侵害については、著作権を侵害してはいけない、と法律で禁止されていますが、これは著作権を侵害している人に対してだけではなく、著作権を侵害していない人にも、著作権を侵害してはいけない、と禁じているのです。まさか著作権を侵害していない人に、著作権を侵害させてから、著作権侵害の罪を説くとでも考えているのでしょうか?それで、高森会長は、著作権侵害を率先垂範でしたのですかね。

万引きはどこの店でも禁止されていますが、まさか万引きしていない人には万引きさせてから万引きの罪について説こうというのでしょうか?それでまた、率先垂範した奇特な方があるというのですかね。

親鸞会講師部員の禁止事項の1つに、不倫がありますが、不倫をするな、といっているのは、講師部員が全員不倫をしているからという理屈なのでしょうか?どうりで…。

法律や倫理道徳と仏法のこととは別だ

という親鸞会擁護の自称退会者がいましたが、そんな負け惜しみの好きな人のために、更に言っておきますと、仏教では多くの戒律があります。基本的な戒律として親鸞会でも知っているのが五戒ですが、その中に、不邪淫戒があります。これはいわゆる不倫を禁止したものですが、上記の通りですね。不倫をしていない人に対しても、不邪淫戒があるのですが、一度不倫をさせてみてから禁止するという馬鹿な話がある訳ないです。また五戒に不飲酒戒もありますが、これも酒を飲んでいない人に対しても、酒を飲むと理性を失うから飲んではいけないと禁止されているのであって、酒をまず飲ませてから、という理屈が通用する筈がありません。

聖道門の話をしているのではない、18願についてだ

と最後の悪足掻きをする愚か者のために、トドメを刺しておきます。
御存知の通り18願には、「唯除五逆誹謗正法」とあります。
これを善導大師は抑止門摂取門で教えておられることは、真宗の常識で、無教学の高森会長でさえ知っていることですが、抑止門とは未だ五逆・謗法罪を造っていない者に対して、五逆・謗法罪を”抑止”されているという意味です。
しかし親鸞会の”雑行理論”だと、

五逆・謗法を造ってもいない者に”五逆・謗法罪を造ってはいけない”と言われるはずがない

となり、善導大師の仰せを完全に否定することになります。
五逆・謗法罪を造っていない者には、五逆・謗法罪を造らせてみて、と五逆・謗法罪を”抑止”どころか”奨励”するのが親鸞会理論です。尤も、全人類は五逆・謗法罪を生れながらに造っている、と全く根拠の無いことを言い張るくらいですから、抑止門は

五逆・謗法を造っている全人類に対して、恐ろしい罪を知らせるためだ

と無知を晒すかも知れませんが、親鸞聖人は『散善義』を『教行信証』信巻に引かれて

しかるに謗法の罪は、いまだ為らざれば、また止めて〈もし謗法を起さば、すなはち生ずることを得じ〉とのたまふ。これは未造業について解するなり。

(現代語訳)

しかし、謗法の罪はまだ犯していないから、<もし謗法の罪を犯すなら往生することはできない>と止められるのである。これはまだ犯していない罪のことと理解される。

と教えておられます。「いまだ為らざれば」「未造業」です。

親鸞会の御粗末な詭弁ですが、それが詭弁と見破れない人のために、最小限の御文で解説しておきました。

posted by 鴻 at 22:50| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り28

『顕真』平成23年7月号の続きです。

疑難と答え5
弥陀の本願は矛盾か

(疑難)
「弥陀が十方衆生を煩悩具足・造悪不善の者と見抜いて十八願を建てられているのに、十九願で諸善を勧めていられるのは矛盾ではないか」

(答え)
「諸善は、往生浄土の方便なり」
「諸善は、みな弥陀の方便なり」
「諸善は、信心獲得の因縁なり」
 これら善知識のご教導を、「諸善を励めば弥陀に救われる(他力信心)ことだ」と聞き誤る人が少なくない。
 とんでもない誤解である。
 0をいくら加えても0であるように、人間の行う善はいくら励んでも自力である。
 自力はいくら努めても他力にはならぬから、弥陀の浄土に往生はできないのだ。

ここで、「諸善は、信心獲得の因縁なり」が善知識のご教導という前提で勝手に書いていますが、この根拠が無いのです。

これは『口伝鈔』を読めば簡単に論破できるのですが、2通りとは1通りということだ、と断言して、それが幼稚な思考だと指摘されると黙ってしまい、「難しい」は可能性0ではないよ、と指摘するとやはり黙ってしまうような知恵しかない人には理解できないと思います。

親鸞会は、宿善、方便、因縁という言葉ですべて曖昧にして誤魔化そうとしていますが、高森会長の宿善に対する主張を確認しておきましょう。

『本願寺なぜ答えぬ』には、

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

と書いています。更に『教学聖典(5)』には

(問)
 宿善の厚き人と、薄き人との違いを教えられた『唯信鈔』の御文を示せ。

(答)
 宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。
 宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。

とあります。
これと『口伝鈔』の親鸞聖人のお言葉として紹介されている

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

と、覚如上人の解説

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

と、『唯信鈔』と高森理論を合わせますと

宿善あつきひと
=「宿善の厚きもの
=「今生に善をこのみ悪をおそる」人
=「今生も善根を修し悪業をおそる」人
過去世において善に励み悪を慎んできた人
=「機に生れつきたる善

宿悪おもきもの
=「宿善少きもの
=「今生に悪をこのみ善にうとし」の人
=「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」の人
過去世において善をせず悪行を重ねてきた人
=「機に生れつきたる悪

となります。以上から、親鸞聖人のお言葉を言い換えてみると、

しかれば宿善の厚きもの(過去世に善を多くしてきた人)か薄きもの(過去世に善をしてこなかった人)かは、報土往生のプラスにもマイナスにもならないことは勿論である

です。

どこか違いますか?

されば、覚如上人は親鸞会の宿善論を前提とされた場合に、往生との関係を、「かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからず」と結論付けておられます。つまり「宿善あつきひと」「宿悪おもきもの」かどうかで往生できるかどうかを決めることはできない、ということです。親鸞会用語でいえば、宿善の厚薄で往生できるかどうか決まらないということです。
これが高森会長の教えている

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

諸善は、信心獲得の因縁なり

と同じだという人は、幼稚園児以下の思考でしょう。通常の思考がある人なら、覚如上人は、高森理論を完全に否定されていることが判られるでしょう。

更に、もう一度、『往生要集』のお言葉を見てみましょう。

まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。
(中略)
問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。

ここで源信僧都は、遇法の因縁について過去世の善根との関係で仰っています。
過去世に聖道門の修行を八万年も続けられた「宿善あつきひと」であっても、18願を聞いて信じ求めることはできないのに、五逆の罪人のような「薄徳」の「宿悪おもきもの」であっても、容易く18願を信じ求めることがあるのです。まさに「生死の因縁は不可思議」なのです。
源信僧都も覚如上人も同じことを仰っているのです。

ですから覚如上人は

ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて

と、親鸞会でいうところの宿善の厚薄は過去のこととして、それにこだわるのが自力であるから捨て去って、すべて他力におまかせしなさい、と仰っているのです。

これが自力無功・他力全託の二種深信です。
つまり、親鸞会の宿善論を捨てることが自力を捨てることなのです。何度も言っている通りです。自力とは何かが判れば、簡単な話です。

mixi等での法論で、高森会長が敗戦を誤魔化すために、

自分は正しい信心を体得している幸せ者で聖教を正しく理解できるが、未信や異安心の者には正しい聖教の意味が判らず可哀相だ

という内容のことをワンパターンで言ってきます。これは負けを事実上認めたも同然です。もし本当に判っているなら、相手のどこがどう間違っているか、そして正しくはこうだと、論理的に説明できる筈ですが、それはいつもありません。単なる負け犬の遠吠えです。

善知識の条件は体験と教学とが揃った人、と親鸞会では説明してきましたが、悪知識も同じですね。
悪知識とは間違った体験おかしな教学とが揃った人物、まさに高森会長以下講師部員のことです。

posted by 鴻 at 22:47| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り29

親鸞会でしか学んだことのない人には、親鸞会用語が真宗の常識とは異なっていることを知らないと、親鸞会以外の書物を読むと頭が混乱すると思います。
宿善や方便がその典型ですが、機の深信、罪悪観もそうです。
機の深信が自力無功で、聖者も善凡夫も悪凡夫も、定散諸機も極重の悪人も共通ということと、罪悪が全人類同じということとは全く別のことです。しかし、それがカルト思考ではどうしても理解できないのです。理解したくないが正しいでしょう。

判りやすい例として龍樹菩薩のことをいつも出しますが、龍樹菩薩は自力で出離された方ですから、当然善のできた方であり、もちろん地獄に堕ちることはありません。龍樹菩薩を下品下生という仏教徒はありません。親鸞会が外道の証拠です。

前置きが長くなりましたが、『顕真』平成23年7月号の続きです。

 では、そんな煩悩具足で虚仮・雑毒の善しかできぬ十方衆生と見抜かれた弥陀が十八願で、”そんな者を救う”と誓われているのになぜ、十九願で同じ十方衆生に諸善を勧められているのだろうか。
 この阿弥陀仏の本願を矛盾とみるか。弥陀の大慈悲と知るか。
 親鸞聖人は、こう喝破されている。
(原文)
【真・仮を知らざるによりて、
 如来広大の恩徳を迷失す】
              (教行信証)
(意訳)
「十八願(真)と十九・二十願(仮)を建てられた弥陀の御心が分からず、矛盾としか思えないから広大無辺の弥陀の恩徳が知られないのである」

(中略)

 自力からみれば矛盾に見えるだろうが、他力からは何の矛盾もなく、親鸞聖人はこう感泣されている。
(原文)
【既に以て、真仮みな是れ
 大悲の願海に酬報せり】
           (教行信証真仏土巻)
(意訳)
「十八願(真)十九願・二十願(仮)ともに、『すべての人を絶対の幸福に救い摂る』弥陀の大慈悲心から建てられたものである」

 善知識方が、「諸善はみな弥陀の方便なり」「諸善は往生浄土の方便なり」「諸善は信心獲得の因縁なり」(宿善)と言われているのは、「我々の虚仮・雑毒の善が弥陀の救いの資助になる(=役に立つ・間に合う)」ということでは断じてない。
「弥陀の方便」(信心獲得の因縁)と「弥陀の真実」(信心獲得)の区別が立たないのは、聖人仰せの通り弥陀の本願の真・仮を知らないからに外ならない

無茶苦茶な内容です。18願の「十方衆生」と19願の「十方衆生」の意味の違いについては、mixiでの法論で高森会長が惨敗したにも関わらず、正そうという気配もありません。修正したら、”三願転入の教え””善の勧め”の最大の根拠を失いますので、高森会長が死んでも認めないでしょう。
18願と19願とが矛盾するとしきりに言っていますが、何も矛盾しません。私が矛盾すると言っているのは、悪人に19願の善を勧める高森理論が矛盾だと言っているのです。何度も何度も何度も言っていますように、18願と19願とは対機が違うのですから、これを矛盾と考える方がどうかしています。

18願は悪人を正機として、善人を傍機とされています。
『口伝鈔』には

しかれば御釈(玄義分)にも、〈一切善悪凡夫得生者〉と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。

とあり、当然ながら善凡夫と悪凡夫が区別されています。「傍機たる善凡夫」がいるのです。
一方で、19願には悪人は含まれていません。善人正機です。散々述べた通りです。
そこで聖道門では、19願を最重要視したのですが、法然上人は18願が選択本願であり、王本願と断言されたので、猛反発してきたのです。そのことについては、

「親鸞会の邪義を正す」
”三願転入の教え”の誤り2

でも説明してあります。法然上人の正しさと聖道門の考えの間違いを正されるために仰ったのが、「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」です。
時代背景を知っていれば、親鸞聖人がこのように仰った意味が、容易に判る筈です。

真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり」についても、よくもまあ、ここまで意味をねじ曲げられるものだと驚嘆していますが、意味は、

「安心問答」
「真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり」の真仮とは何ですか?(頂いた質問)

にもありますので、ご参照ください。

最後の

 善知識方が、「諸善はみな弥陀の方便なり」「諸善は往生浄土の方便なり」「諸善は信心獲得の因縁なり」(宿善)と言われているのは、「我々の虚仮・雑毒の善が弥陀の救いの資助になる(=役に立つ・間に合う)」ということでは断じてない。
「弥陀の方便」(信心獲得の因縁)と「弥陀の真実」(信心獲得)の区別が立たないのは、聖人仰せの通り弥陀の本願の真・仮を知らないからに外ならない。

は、前回述べた通りですが、補足すれば、高森理論はこうです。

過去世・現在世の善根は救いの資助にはならないが、宿善になる。

「宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない」(本願寺なぜ答えぬ)ということは、宿善を厚くすれば救われる。

これは、

諸善は救いの資助にならないが、諸善をして宿善にすれば資助になる

という理屈です。何のことはありません、諸善を宿善に言い換えることで、誤魔化しただけのことです。これはmixiでの法論でも使われた手口です。
前回のエントリーをよく読まれれば、ご理解頂けると思います。

先にもいいましたように、親鸞会は同じ言葉を使いながら、意味が異なりますので、外部の人が親鸞会を見てもよく判りませんし、内部の人が本願寺等の外部の書籍を読んでも正しく理解できないのです。退会しても、この状態が長く続きます。これがマインドコントロールの恐ろしさです。

posted by 鴻 at 22:46| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り30

18願と19願の「十方衆生」の違いについては、平成22年のmixiでの法論等で、高森会長も講師部員も全く反論ができずに、

十方衆生とあるから十方衆生だ

ということしかできない無能振りです。どれだけ無い知恵を絞ったところで、聖教上の根拠が出せる筈も無く、創作アニメやヘンテコな譬え、真宗学者の論文を断章取義して誤魔化せたと喜んでいる始末です。

さて、前回紹介した『顕真』7月号の

では、そんな煩悩具足で虚仮・雑毒の善しかできぬ十方衆生と見抜かれた弥陀が十八願で、”そんな者を救う”と誓われているのになぜ、十九願で同じ十方衆生に諸善を勧められているのだろうか。

は、親鸞会会員と出身者には、疑問もなく読み流されてしまうかも知れませんが、ここに落とし穴があります。18願と19願の「十方衆生」の違いをよく理解できれば、「煩悩具足で虚仮・雑毒の善しかできぬ十方衆生と見抜かれた弥陀が十八願で、”そんな者を救う”と誓われている」の部分も間違いであることに気が付かれるでしょう。
この「煩悩具足で虚仮・雑毒の善しかできぬ」は善人のことであり、これが19願の「十方衆生」に当るのです。18願の正機である悪人のことを言いたいのであれば、「煩悩具足で虚仮・雑毒の善さえもできぬ」としなければなりません。
『顕真』でも挙げている『教行信証』信巻・信楽釈

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

が十方衆生の真相ですが、これは善ができる善人でも「虚仮雑毒の善」にしかならないから、「無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり」なのです。
では阿弥陀仏に向って「虚仮雑毒の善」をしたならどうなるかについて、『教行信証』真仏土巻の最後

それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。
(中略)
仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。

(現代語訳)

さて、報ということを考えると、如来が因位においておこされた願の果報として浄土は成就されたのである。だから報というのである。ところで、如来の願に真実と方便とがある。だから、成就された仏と浄土にも真実と方便とがある。
(中略)
方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」に示すので、そこで知るがよい。すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、報仏であり報土であると知ることができる。方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。如来の願に真実と方便とがあることを知らないから、如来の広大な恩徳を正しく受け取ることができないのである。

とあるように、「虚仮雑毒の善」では化土往生にしかならないことを教えておられるのです。まとめると

仏―真実の善―報土往生
善人―虚仮雑毒の善―化土往生
悪人―無善造悪―六道輪廻

ということです。
高森会長はしきりに、「虚仮雑毒の善」ができるからせよ、と教えていますが、「虚仮雑毒の善」ができるなら悪人ではありません。何度も何度も述べてきた通りです。最近では会員に、布施という行福ができるからせよ、と言っているそうですが、行福ができるなら、上品です。それでいて、全人類は下品下生で必堕無間だと脅しているのですから、論理が無茶苦茶です。

雑毒の善ができる下品下生???

でも書いた通りです。高森会長の頭では、真実の善のできない者は、下品下生という思考ですが、世の中のことも仏法も100点でなければ0点としか考えられないのでしょう。これは、有か無以外は有り得ないという外道の教えです。何でも型に填めているから、法然上人が2通りあると仰っているのに、それは1通りということだ、という幼稚園児以下の考え方になっていても平気なのです。

宿善も三願転入もそうです。ずっと前から質問している

万引きという法律上の悪を犯した講師部員がいることは、誰も否定しませんのでこれを前提として話をします。(そんな講師部員はいない、というのであれば、はっきり否定してください)

会員の模範であり、宿善が一般の人よりも遥かに厚い筈の講師部員が、一般の人がしない法律上の悪をどういう気持ちで犯したのかを尋ねたいのです。それと高森会長は、宿善が厚く宿善開発したと聞いていますが、盗作や浄財の私的流用も、窃盗の一種であり、宿善の意味を知りたいのです。

聖覚法印、覚如上人が仰っていることをそのまま当て填めれば、会長とその講師部員は「宿善すくなきもの」「宿悪おもきもの」であったということです。もしそうならば、会長は宿善開発していると言えないのではないでしょうか。
あるいは、会員には廃悪修善を勧めながら、往生の障りにならないから本当は善をしなくてもいし、悪をどれだけしても関係ないのだ、と思っているのでしょうか。だとすれば、完全に謗法罪です。

『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないですか。

これだけでも理解できれば、”三願転入の教え”も”宿善論”も恥ずかしくて、主張できない筈です。
これでも理解できない人のためにもう少し説明すると、獲信者が一様に過去世に19願を通ってきたとするならば、親鸞会が断章取義している『唯信鈔』の

宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。

は、間違いになります。なぜなら、未だに盗作や浄財の私的流用を続けている獲信している筈の高森会長は、「宿善少なきもの」としか言い様がありません。耳四郎でもそうです。『観無量寿経』に説かれた下品下生の五逆の罪人もそうです。だから源信僧都は「生死の因縁は不可思議」「この義、知りがたし」と仰り、『唯信鈔』には

われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

と表現され、覚如上人は「善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。」と仰っているのです。

まして謂わんや、今18願を聞いて18願での救いを求めている人に、19願から始めよ、などという”三願転入の教え”が真宗に存在する訳がありません。実際に、高森会長も講師部員も、誰も”三願転入の教え”の聖教上の根拠を示せずに、mixiでの法論を抹殺することしかできないのです。あるいは、夢幻の戯言をブログで書いて憂さ晴らしをするだけ。

なんとも恥ずかしくも情けない団体です。

posted by 鴻 at 22:35| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り31

前回、雑毒の善ができれば善人であり、下品下生ではない、と述べましたが、先日の座談会で、

十方衆生=逆謗の屍

をやたら強調したそうです。このことは

「安心問答」
会長「十方衆生は逆謗だから、逆謗でない者は本願に漏れている」→参詣者「??」(7月28日テレビ座散会より)

にありましたが、聖教上の根拠も無いのに、「意地でも自説を曲げてなるものか、ワシの言うことに間違いはない、疑わずに信じよ」、という高森会長の心の叫びです。高森会長の根拠は、大沼師の味わいだけです。

聖教を読んだことの無い高森会長は、基本的な善の意味さえも理解できないようです。
その1つの証拠が『顕真』平成23年7月号の3番目の疑難と答えです。

疑難と答え 6
宿善とは過去を喜ぶもの

(疑難)
「宿善とは、宿世(過去世)の善根という意味であり、振り返って喜ぶ過去の善だから、”宿善を求める”などと未来に向って言うべきことではない。今からやる善とは無関係だ」

(答え)
 要するに「過去をあらわす言葉を未来に使うのが間違い。過去の善根と未来の善根とは無関係」というのである。

 果たして、そう言えるだろうか。
「想い出をつくろう」というのは間違いだろうか。「想い出」は過去をあらわす言葉であり、「つくろう」は未来のことだからである。
「悔いを残さぬように」というもの間違いだろうか。「悔い」は過去をあらわす言葉であり、「残さぬように」は未来のことであるからだ。

「宿善」は過去をあらわす言葉であり、「求める」は未来のことである。
「宿善を求める」だけが、なぜ間違いと言えるのだろうか。悪いはずがなかろう。

ここで自己矛盾に陥っています。

善のできない逆謗の屍が、過去世に善根を修してきたということですか?
親鸞会の主張である『唯信鈔』の「宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。」によれば、今生に逆謗の悪業をこのみ善根を造っていない十方衆生が、過去世に善を修してきたというのですか?
また過去世でも、善のできない逆謗の屍であったのですから、過去世においても善を修していない筈ですが、違いますか?
要するに、過去も現在も未来も無善で五逆罪・謗法罪ばかりを造っている者が、いつどこでどのようにして善を修するというのでしょうか?
自分の言っていることが判っていますか、高森会長。

無善というのは、真実の善ができないということで、雑毒の善は善に入らない

とでも寝恍けたことをいいますか、高森会長。
散善について高森会長は、「心が散り乱れたままでもよいから善をしなさい」と説明していますが、心が散り乱れたまま行う善が真実の善とでも考えているのでしょうか?
心が散り乱れたままで行う雑毒の善さえもできないものが、下品三生と何度も何度も説明してきましたが、まだ判らないのですか?

どこを突いても矛盾しかありません。

宿善を宿世の善根と通仏教では説明しますが、真宗では宿善を阿弥陀仏のお育てと説明します。そのことは

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは3

にも書かれていますし、『往生要集』『口伝鈔』を挙げて最近も述べたのもこのことです。

高森会長は言葉を曖昧に使って誤魔化しているだけで、少し問い詰めればすぐにボロが出ます。

真実の善は仏しかできません、真実の善でなければ報土には往けません。それで阿弥陀仏が十方衆生に成り代わられて、真実の善をなされてその功徳を十方衆生に回向して下されたのです。報土往生の因は、阿弥陀仏が真実の善によって用意なされていますので、衆生の側で雑毒の善をする必要が全くないのです。阿弥陀仏の真実の善だけでは不足だと思って雑毒の善をしようとするのを、「仏智疑惑」と言われるのです。
蓮如上人は『御文章』2帖目第9通に、

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。

と教えられている通りです。
阿弥陀仏が真実の善の功徳を十方衆生に回向して下されていますので、十方衆生は報土往生のために善をする必要がなぜあるのでしょうか?
「宿善を求める」だの「19願を必ず通らなければならない」だのと言っているのを、親鸞聖人は『正像末和讃』誡疑讃

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

仏智疑惑のつみにより
 懈慢辺地にとまるなり
 疑惑のつみのふかきゆゑ
 年歳劫数をふるととく

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

と、厳しく誡めておられるのです。

因果の道理を有の見で理解し説明している高森会長以下講師部員には、回向という概念は全く理解できないでしょう。

ましてや十方衆生の定相が、逆謗の屍と未だに言っている有の見の外道には、今回のエントリーもチンプンカンプンで、また的外れな内輪向けの反論をこそこそとするしかないでしょうね。
でも、それが外部に漏れてしまうから、また大恥をかくことになるのですよ、高森会長。恥をこれ以上かきたくなければ、教団名を高森教と改名することをお勧めします。

posted by 鴻 at 22:31| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする
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