18願と19願の「十方衆生」の違いについては、平成22年のmixiでの法論等で、高森会長も講師部員も全く反論ができずに、
十方衆生とあるから十方衆生だ
ということしかできない無能振りです。どれだけ無い知恵を絞ったところで、聖教上の根拠が出せる筈も無く、創作アニメやヘンテコな譬え、真宗学者の論文を断章取義して誤魔化せたと喜んでいる始末です。
さて、前回紹介した『顕真』7月号の
では、そんな煩悩具足で虚仮・雑毒の善しかできぬ十方衆生と見抜かれた弥陀が十八願で、”そんな者を救う”と誓われているのになぜ、十九願で同じ十方衆生に諸善を勧められているのだろうか。
は、親鸞会会員と出身者には、疑問もなく読み流されてしまうかも知れませんが、ここに落とし穴があります。18願と19願の「十方衆生」の違いをよく理解できれば、「煩悩具足で虚仮・雑毒の善しかできぬ十方衆生と見抜かれた弥陀が十八願で、”そんな者を救う”と誓われている」の部分も間違いであることに気が付かれるでしょう。
この「煩悩具足で虚仮・雑毒の善しかできぬ」は善人のことであり、これが19願の「十方衆生」に当るのです。18願の正機である悪人のことを言いたいのであれば、「煩悩具足で虚仮・雑毒の善さえもできぬ」としなければなりません。
『顕真』でも挙げている『教行信証』信巻・信楽釈の
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
が十方衆生の真相ですが、これは善ができる善人でも「虚仮雑毒の善」にしかならないから、「無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり」なのです。
では阿弥陀仏に向って「虚仮雑毒の善」をしたならどうなるかについて、『教行信証』真仏土巻の最後に
それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。
(中略)
仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。(現代語訳)
さて、報ということを考えると、如来が因位においておこされた願の果報として浄土は成就されたのである。だから報というのである。ところで、如来の願に真実と方便とがある。だから、成就された仏と浄土にも真実と方便とがある。
(中略)
方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」に示すので、そこで知るがよい。すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、報仏であり報土であると知ることができる。方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。如来の願に真実と方便とがあることを知らないから、如来の広大な恩徳を正しく受け取ることができないのである。
とあるように、「虚仮雑毒の善」では化土往生にしかならないことを教えておられるのです。まとめると
仏―真実の善―報土往生
善人―虚仮雑毒の善―化土往生
悪人―無善造悪―六道輪廻
ということです。
高森会長はしきりに、「虚仮雑毒の善」ができるからせよ、と教えていますが、「虚仮雑毒の善」ができるなら悪人ではありません。何度も何度も述べてきた通りです。最近では会員に、布施という行福ができるからせよ、と言っているそうですが、行福ができるなら、上品です。それでいて、全人類は下品下生で必堕無間だと脅しているのですから、論理が無茶苦茶です。
でも書いた通りです。高森会長の頭では、真実の善のできない者は、下品下生という思考ですが、世の中のことも仏法も100点でなければ0点としか考えられないのでしょう。これは、有か無以外は有り得ないという外道の教えです。何でも型に填めているから、法然上人が2通りあると仰っているのに、それは1通りということだ、という幼稚園児以下の考え方になっていても平気なのです。
宿善も三願転入もそうです。ずっと前から質問している
万引きという法律上の悪を犯した講師部員がいることは、誰も否定しませんのでこれを前提として話をします。(そんな講師部員はいない、というのであれば、はっきり否定してください)
会員の模範であり、宿善が一般の人よりも遥かに厚い筈の講師部員が、一般の人がしない法律上の悪をどういう気持ちで犯したのかを尋ねたいのです。それと高森会長は、宿善が厚く宿善開発したと聞いていますが、盗作や浄財の私的流用も、窃盗の一種であり、宿善の意味を知りたいのです。
聖覚法印、覚如上人が仰っていることをそのまま当て填めれば、会長とその講師部員は「宿善すくなきもの」「宿悪おもきもの」であったということです。もしそうならば、会長は宿善開発していると言えないのではないでしょうか。
あるいは、会員には廃悪修善を勧めながら、往生の障りにならないから本当は善をしなくてもいし、悪をどれだけしても関係ないのだ、と思っているのでしょうか。だとすれば、完全に謗法罪です。この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。
(現代語訳)
この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。
と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないですか。
これだけでも理解できれば、”三願転入の教え”も”宿善論”も恥ずかしくて、主張できない筈です。
これでも理解できない人のためにもう少し説明すると、獲信者が一様に過去世に19願を通ってきたとするならば、親鸞会が断章取義している『唯信鈔』の
宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。
は、間違いになります。なぜなら、未だに盗作や浄財の私的流用を続けている獲信している筈の高森会長は、「宿善少なきもの」としか言い様がありません。耳四郎でもそうです。『観無量寿経』に説かれた下品下生の五逆の罪人もそうです。だから源信僧都は「生死の因縁は不可思議」「この義、知りがたし」と仰り、『唯信鈔』には
われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。
と表現され、覚如上人は「善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。」と仰っているのです。
まして謂わんや、今18願を聞いて18願での救いを求めている人に、19願から始めよ、などという”三願転入の教え”が真宗に存在する訳がありません。実際に、高森会長も講師部員も、誰も”三願転入の教え”の聖教上の根拠を示せずに、mixiでの法論を抹殺することしかできないのです。あるいは、夢幻の戯言をブログで書いて憂さ晴らしをするだけ。
なんとも恥ずかしくも情けない団体です。