2013年01月24日

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り29

親鸞会でしか学んだことのない人には、親鸞会用語が真宗の常識とは異なっていることを知らないと、親鸞会以外の書物を読むと頭が混乱すると思います。
宿善や方便がその典型ですが、機の深信、罪悪観もそうです。
機の深信が自力無功で、聖者も善凡夫も悪凡夫も、定散諸機も極重の悪人も共通ということと、罪悪が全人類同じということとは全く別のことです。しかし、それがカルト思考ではどうしても理解できないのです。理解したくないが正しいでしょう。

判りやすい例として龍樹菩薩のことをいつも出しますが、龍樹菩薩は自力で出離された方ですから、当然善のできた方であり、もちろん地獄に堕ちることはありません。龍樹菩薩を下品下生という仏教徒はありません。親鸞会が外道の証拠です。

前置きが長くなりましたが、『顕真』平成23年7月号の続きです。

 では、そんな煩悩具足で虚仮・雑毒の善しかできぬ十方衆生と見抜かれた弥陀が十八願で、”そんな者を救う”と誓われているのになぜ、十九願で同じ十方衆生に諸善を勧められているのだろうか。
 この阿弥陀仏の本願を矛盾とみるか。弥陀の大慈悲と知るか。
 親鸞聖人は、こう喝破されている。
(原文)
【真・仮を知らざるによりて、
 如来広大の恩徳を迷失す】
              (教行信証)
(意訳)
「十八願(真)と十九・二十願(仮)を建てられた弥陀の御心が分からず、矛盾としか思えないから広大無辺の弥陀の恩徳が知られないのである」

(中略)

 自力からみれば矛盾に見えるだろうが、他力からは何の矛盾もなく、親鸞聖人はこう感泣されている。
(原文)
【既に以て、真仮みな是れ
 大悲の願海に酬報せり】
           (教行信証真仏土巻)
(意訳)
「十八願(真)十九願・二十願(仮)ともに、『すべての人を絶対の幸福に救い摂る』弥陀の大慈悲心から建てられたものである」

 善知識方が、「諸善はみな弥陀の方便なり」「諸善は往生浄土の方便なり」「諸善は信心獲得の因縁なり」(宿善)と言われているのは、「我々の虚仮・雑毒の善が弥陀の救いの資助になる(=役に立つ・間に合う)」ということでは断じてない。
「弥陀の方便」(信心獲得の因縁)と「弥陀の真実」(信心獲得)の区別が立たないのは、聖人仰せの通り弥陀の本願の真・仮を知らないからに外ならない

無茶苦茶な内容です。18願の「十方衆生」と19願の「十方衆生」の意味の違いについては、mixiでの法論で高森会長が惨敗したにも関わらず、正そうという気配もありません。修正したら、”三願転入の教え””善の勧め”の最大の根拠を失いますので、高森会長が死んでも認めないでしょう。
18願と19願とが矛盾するとしきりに言っていますが、何も矛盾しません。私が矛盾すると言っているのは、悪人に19願の善を勧める高森理論が矛盾だと言っているのです。何度も何度も何度も言っていますように、18願と19願とは対機が違うのですから、これを矛盾と考える方がどうかしています。

18願は悪人を正機として、善人を傍機とされています。
『口伝鈔』には

しかれば御釈(玄義分)にも、〈一切善悪凡夫得生者〉と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。

とあり、当然ながら善凡夫と悪凡夫が区別されています。「傍機たる善凡夫」がいるのです。
一方で、19願には悪人は含まれていません。善人正機です。散々述べた通りです。
そこで聖道門では、19願を最重要視したのですが、法然上人は18願が選択本願であり、王本願と断言されたので、猛反発してきたのです。そのことについては、

「親鸞会の邪義を正す」
”三願転入の教え”の誤り2

でも説明してあります。法然上人の正しさと聖道門の考えの間違いを正されるために仰ったのが、「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」です。
時代背景を知っていれば、親鸞聖人がこのように仰った意味が、容易に判る筈です。

真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり」についても、よくもまあ、ここまで意味をねじ曲げられるものだと驚嘆していますが、意味は、

「安心問答」
「真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり」の真仮とは何ですか?(頂いた質問)

にもありますので、ご参照ください。

最後の

 善知識方が、「諸善はみな弥陀の方便なり」「諸善は往生浄土の方便なり」「諸善は信心獲得の因縁なり」(宿善)と言われているのは、「我々の虚仮・雑毒の善が弥陀の救いの資助になる(=役に立つ・間に合う)」ということでは断じてない。
「弥陀の方便」(信心獲得の因縁)と「弥陀の真実」(信心獲得)の区別が立たないのは、聖人仰せの通り弥陀の本願の真・仮を知らないからに外ならない。

は、前回述べた通りですが、補足すれば、高森理論はこうです。

過去世・現在世の善根は救いの資助にはならないが、宿善になる。

「宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない」(本願寺なぜ答えぬ)ということは、宿善を厚くすれば救われる。

これは、

諸善は救いの資助にならないが、諸善をして宿善にすれば資助になる

という理屈です。何のことはありません、諸善を宿善に言い換えることで、誤魔化しただけのことです。これはmixiでの法論でも使われた手口です。
前回のエントリーをよく読まれれば、ご理解頂けると思います。

先にもいいましたように、親鸞会は同じ言葉を使いながら、意味が異なりますので、外部の人が親鸞会を見てもよく判りませんし、内部の人が本願寺等の外部の書籍を読んでも正しく理解できないのです。退会しても、この状態が長く続きます。これがマインドコントロールの恐ろしさです。

posted by 鴻 at 22:46| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする
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