『顕真』平成23年7月号の続きです。
疑難と答え5
弥陀の本願は矛盾か(疑難)
「弥陀が十方衆生を煩悩具足・造悪不善の者と見抜いて十八願を建てられているのに、十九願で諸善を勧めていられるのは矛盾ではないか」(答え)
「諸善は、往生浄土の方便なり」
「諸善は、みな弥陀の方便なり」
「諸善は、信心獲得の因縁なり」
これら善知識のご教導を、「諸善を励めば弥陀に救われる(他力信心)ことだ」と聞き誤る人が少なくない。
とんでもない誤解である。
0をいくら加えても0であるように、人間の行う善はいくら励んでも自力である。
自力はいくら努めても他力にはならぬから、弥陀の浄土に往生はできないのだ。
ここで、「諸善は、信心獲得の因縁なり」が善知識のご教導という前提で勝手に書いていますが、この根拠が無いのです。
これは『口伝鈔』を読めば簡単に論破できるのですが、2通りとは1通りということだ、と断言して、それが幼稚な思考だと指摘されると黙ってしまい、「難しい」は可能性0ではないよ、と指摘するとやはり黙ってしまうような知恵しかない人には理解できないと思います。
親鸞会は、宿善、方便、因縁という言葉ですべて曖昧にして誤魔化そうとしていますが、高森会長の宿善に対する主張を確認しておきましょう。
『本願寺なぜ答えぬ』には、
宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。
と書いています。更に『教学聖典(5)』には
(問)
宿善の厚き人と、薄き人との違いを教えられた『唯信鈔』の御文を示せ。
(答)
宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。
宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。
とあります。
これと『口伝鈔』の親鸞聖人のお言葉として紹介されている
しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。
と、覚如上人の解説
宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。
と、『唯信鈔』と高森理論を合わせますと
「宿善あつきひと」
=「宿善の厚きもの」
=「今生に善をこのみ悪をおそる」人
=「今生も善根を修し悪業をおそる」人
=過去世において善に励み悪を慎んできた人
=「機に生れつきたる善」
「宿悪おもきもの」
=「宿善少きもの」
=「今生に悪をこのみ善にうとし」の人
=「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」の人
=過去世において善をせず悪行を重ねてきた人
=「機に生れつきたる悪」
となります。以上から、親鸞聖人のお言葉を言い換えてみると、
しかれば宿善の厚きもの(過去世に善を多くしてきた人)か薄きもの(過去世に善をしてこなかった人)かは、報土往生のプラスにもマイナスにもならないことは勿論である
です。
どこか違いますか?
されば、覚如上人は親鸞会の宿善論を前提とされた場合に、往生との関係を、「かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからず」と結論付けておられます。つまり「宿善あつきひと」「宿悪おもきもの」かどうかで往生できるかどうかを決めることはできない、ということです。親鸞会用語でいえば、宿善の厚薄で往生できるかどうか決まらないということです。
これが高森会長の教えている
宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。
諸善は、信心獲得の因縁なり
と同じだという人は、幼稚園児以下の思考でしょう。通常の思考がある人なら、覚如上人は、高森理論を完全に否定されていることが判られるでしょう。
更に、もう一度、『往生要集』のお言葉を見てみましょう。
まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。
(中略)
問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。答ふ。この義、知りがたし。
ここで源信僧都は、遇法の因縁について過去世の善根との関係で仰っています。
過去世に聖道門の修行を八万年も続けられた「宿善あつきひと」であっても、18願を聞いて信じ求めることはできないのに、五逆の罪人のような「薄徳」の「宿悪おもきもの」であっても、容易く18願を信じ求めることがあるのです。まさに「生死の因縁は不可思議」なのです。
源信僧都も覚如上人も同じことを仰っているのです。
ですから覚如上人は
ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて
と、親鸞会でいうところの宿善の厚薄は過去のこととして、それにこだわるのが自力であるから捨て去って、すべて他力におまかせしなさい、と仰っているのです。
これが自力無功・他力全託の二種深信です。
つまり、親鸞会の宿善論を捨てることが自力を捨てることなのです。何度も言っている通りです。自力とは何かが判れば、簡単な話です。
mixi等での法論で、高森会長が敗戦を誤魔化すために、
自分は正しい信心を体得している幸せ者で聖教を正しく理解できるが、未信や異安心の者には正しい聖教の意味が判らず可哀相だ
という内容のことをワンパターンで言ってきます。これは負けを事実上認めたも同然です。もし本当に判っているなら、相手のどこがどう間違っているか、そして正しくはこうだと、論理的に説明できる筈ですが、それはいつもありません。単なる負け犬の遠吠えです。
善知識の条件は体験と教学とが揃った人、と親鸞会では説明してきましたが、悪知識も同じですね。
悪知識とは間違った体験とおかしな教学とが揃った人物、まさに高森会長以下講師部員のことです。