2013年01月24日

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り25

『顕真』平成23年6月号では、前回に紹介したヘンテコ理論の後に、これまたヘンテコ譬え話を出して、詭弁に勤しんでいるようですが、余りにもレベルが低いので譬え話は省略します。どうしても知りたい方は、

「親鸞会のトリック」
暗示にかけようとする表現~『顕真』6月号から~

で譬え話が1つだけ取り上げられていますので、読んでみて下さい。

「雑行」についての結論として、『顕真』6月号では以下のことを書いています。

 微塵の善もできず、十方諸仏に見捨てられた極悪人と知り抜いた弥陀が、「われ一人助けん」と立ち上がり、「われを たのめ、必ず救う」と誓われて、幾億兆年の修行の末、十方世界の善根を南無阿弥陀仏の中に結実し、「どうか、そのまま受け取ってくれ、お前一人のために創ったのだ」と、今現在、叫び続けられているのである。

 その弥陀の本願を疑い、悪しかできぬ者とは微塵も思えず、何とかすれば、何とかなれると自惚れている心を「自力の心」というのである。
 古より、「弥陀を殺すに刃は要らぬ、腐った頭で考える」といわれる。
「弥陀の救いに、己の善を役立たせよう」とする「自力の心」こそが、阿弥陀仏を殺す凶刃なのである。
「雑行を捨てよ」とは、この「自力の心」を捨てよということであって、「もろもろの善をするな」「諸善を捨てよ」ということでは断じてないことを牢記しなければならない。

(原文)
 【
仏智うたがう罪ふかし
  この心おもいしるならば
  くゆる心をむねとして
  仏智の不思議をたのむべし

         (正像末和讃)
(意訳)
 「弥陀の本願を疑うほど
  恐ろしい大罪はなし
  その罪をふかく懺悔して
  本願の不思議を信ずべし」

ここの部分の字面だけを見れば、間違っていないように錯覚するかも知れませんが、「腐った頭で考えた」文章になっています。

まず、「微塵の善もできず、十方諸仏に見捨てられた極悪人と知り抜いた弥陀」とありますが、これは誰のことでしょうか?またこの善とは何でしょうか?
十方衆生が下品下生ということを親鸞会では強調していますので、これはすべての人のこととして言っている筈です。そうなると

『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

は、嘘になります。龍樹菩薩が極悪人だなどというのは、外道の者の言葉でしょうし、智覚禅師が上品上生の往生を遂げられたと親鸞聖人が仰ったのも、嘘ということになります。大体、十方衆生が五逆謗法の者であると仰った善知識方は一人もありません。

これまでにこの間違いを何度も指摘しているのに、「必堕無間」と脅しをかけなければならないので、どうしても修正できないのでしょう。

また、「微塵の善もできない」の「善」とは、どんな善のことでしょうか?
これについては、いつも曖昧な説明ですが、「真実の善はできないが雑毒の善はできる」というのが高森会長の主張ですから、この高森会長の言葉を信用するなら、「真実の善は微塵もできない」という意味になって、「雑毒の善である定散二善はできる」ということになります。韋提希は定散二善ができなかったと説明していますが、結局私たちには「雑毒の善である定散二善はできる」ということで、韋提希と私たちとは違うことになり、矛盾が生じますが、どういうことでしょうか?まさか、定散二善が真実の善だとでも思っているのでしょうかね。
何度も教えてさしあげているように、下品上生以下は、雑毒の善もできない者のことですから、雑毒の善ができる人は、中品下生以上になります。

雑毒の善ができる下品下生???

ここで詳しく述べましたが、これについても一切反論できません。
高森会長の言っていることは、とにかく矛盾しかないのです。マインドコントロールされた会員以外には通用しない腐った理論です。

ついでに教えておきますと、『観無量寿経』の中で、頻婆娑羅王は目連尊者から八斎戒を授けられ、阿那含と成っています。詳しくは

釈尊はなぜ韋提希のもとへ行かれたのか?

で解説しましたが、つまり頻婆娑羅王は阿那含と成れる善人であったということです。韋提希とは明らかに機が違うのです。対機説法の意味が少しは理解できましたか、高森会長。

以上でもお判りのように、「弥陀を殺すに刃は要らぬ、腐った頭で考える」の珍教義が高森邪義なのです。

微塵の雑毒の善もできない極悪人には、「他の方便なし、ただ弥陀を称せよ」しかないのです。当たり前の理屈が判らないのが、腐った頭です。

最後に挙げている『正像末和讃』も、意味も判らず適当に出して会員を騙そうとしているのでしょうが、解釈が根本的に間違っています。
この御和讃は誡疑讃と呼ばれる二十三首の最後の御和讃です。
誡疑讃は、19願・20願を信じていることを「仏智うたがう罪ふかし」と厳しく誡められたもので、19願・20願を信じている人は報土往生はできない、化土往生しかできないことを、くどいほど教えられています。
つまり、これらの御和讃は、三願転入の教えとかいって、19願の実践に拘っている親鸞会の会員に対して、19願を捨てて、18願1つを早く信じなさい、と教えられた親鸞聖人のお言葉です。

腐った頭で考えた腐った教えを会員は聞かされ続けていますから、高森会長を捨てない限り、自力の心が廃ることはあり得えないことを牢記しなければならない。

posted by 鴻 at 22:54| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする
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