2013年01月25日

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り22

書くのも馬鹿らしくなるほど、『顕真』平成23年6月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」は、幼稚な内容に終始していました。
問答形式になっているのですが、当ブログ及び「親鸞会の邪義を正す」の真似をしているようです。しかし、答えの根拠が文証ではなく、高森会長創作「王舎城の悲劇」で、笑えます。
『観無量寿経』に説かれていることについては、『観無量寿経』『観無量寿経疏』に基づいてこれまで当ブログで何度も何度も述べてきましたが、親鸞会の根拠は『観無量寿経』でもなく『観無量寿経疏』でもなく、親鸞会の創作珍説アニメです。

根拠はこれしかないのでしょう。マインドコントロールの会員にしか通用しない根拠です。

同じことの繰り返しですが、復習の為に『顕真』を少しずつ見てみましょう。

(疑難)
「弥陀の十九願は、聖道門の人を浄土門に導くためのものである。十八願の救いを求める人には必要ない」
「十九願は、聖道門に行き詰まって悩む未熟の機(人)を調育するためのものである」
「十九願の相手は、廃悪修善して浄土に往生しようとしている善機(善人)である」

(答え)
 十九願とか自力と聞くと、多分、家や欲を捨てて深山幽谷に入ってする、難行苦行を想像するのだろうが、大きな誤りである。
 弥陀が十九願を建てられた対象は、あくまでも「十方衆生」であって、決して特定の人たちではないのである。
 だから、親鸞聖人も、
「既に以て、真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり」
と、『教行信証真仏土巻』に教授なされている。
 十九願の相手を聖道門自力の行者と思う間違いは、『観無量寿経』の韋提希夫人を知るだけでも分かるはずである。
『観経』は、弥陀の十九願を釈迦が解説されたものであるからだ。

とあります。
珍しく、親鸞会批判者の主張を正確に記していましたので、その点は感心なことです。もちろん、主張には根拠があるのですが、それには全く触れてはいません。触れることもできないでしょう。なぜならここに出してある親鸞会批判者の主張は、親鸞聖人が仰ったことそのままだからです。

この議論がmixiで、こうへい氏(H田講師)及び高森会長が退会者と法論をしてにボロ負けの末逃亡し、挙げ句の果てにmixiのトピックごと削除しなければならなかった程の、親鸞会にとっては極めて都合の悪い大惨敗法論でした。
そこまで恥を晒しながら、まだ同じ主張を繰り返しているのですから、厚顔無恥なのか、強欲のなせる業でしょう。

この”疑難”の根拠については、当ブログでも相当述べてきましたが、

「親鸞会の邪義を正す」

”三願転入の教え”の誤り1

会員との問答(聖道門の19願に対する見解・宿善)

でまとめてありますので、確認されたい方は、そちらを御覧下さい。

『顕真』6月号では、この反論として唯一の文証『教行信証』真仏土巻のお言葉を出していますが、意味が全く違います。前後も紹介すると

仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。

(現代語訳)

方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」に示すので、そこで知るがよい。すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、報仏であり報土であると知ることができる。方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。

ここのどこを読んだら、19願を建てられた対象が特定の人たちではない、という意味になるのでしょうか?
阿弥陀仏のお慈悲によって、報土往生だけでなく、報土に往けない人をも化土に往生させて頂ける、という意味です。つまり、化土往生を否定する高森会長の説とは真逆のことを親鸞聖人が仰っている根拠になるのです。何を血迷っているのかと言いたいです。
同じ意味のことを『末灯鈔』

仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。

(現代語訳)

仏のご恩の深いことは、懈慢辺地や疑城胎宮といわれる方便の浄土に往生することでさえ、阿弥陀仏の四十八願の中に第十九願・第二十願として誓われているのです。そのはたらきがあるからこそ、思いはかることもできない楽しみにあうことができるのです。仏のご恩の深いことは、限りがありません。

と教えられています。化土往生できることを親鸞聖人が強調されている御文なのですが、そんな簡単なことさえも理解できない程の御粗末頭脳では、『観無量寿経』など読める筈もありません。
『顕真』では、この後、アニメ「王舎城の悲劇」の内容を書いているだけです。『顕真』4月号でも創作アニメを根拠としていましたので、本当にこれしかないのです。
詳しくは

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り16

を読んで下さい。『観無量寿経』『観無量寿経疏』と創作アニメとは、似て非なるものなのです。
大沼師のものとも異なります。そのことは

パクリでもない『観無量寿経』とは無関係のお伽話

で述べました。

それにしても文証を出せば全く理解できない無能振りをさらし、文証が出せないときはどこにも通用しない創作珍説だけの新興宗教教祖レベルの高森会長を公表しているだけ。

日に日に親鸞会のレベルが下がって行くようで、嬉しくもあり、情けなくもあります。

そのうちよくある新興宗教のように、オカルトや超能力要素が加わってくるかもしれません。

posted by 鴻 at 04:46| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。