2013年01月25日

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り20

『顕真』平成23年5月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」には、

 もし、”善の勧めが弥陀の救いの障害”ならば、十九願は要門どころか障門であり、仮門ではなく害門となる。
 定散二善を勧めた釈迦は法敵となり、「往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり」と教えた聖人も、弥陀の怨敵となるだろう。

と無知な暴言を書いていますが、善知識方が教えられたことは、18願に救われるには雑行を捨てよ、ということです。雑行とは、19願であり、定散二善のことであり往生浄土の方便の善のことです。18願の救いの障害になるから捨てよなのです。

このことは

「雑行を捨てよ」だけで、親鸞会を簡単に論破できます

雑行の意味も知らない喜劇の主役

後生のためには「善をするな、やめよ」と仰った善知識方のお言葉

で詳しく説明しましたので、そちらを読まれればお判りいただけると思います。
無知な会員を尤もらしい言葉で騙すことしか考えていないのです。mixiでも出た内容で、mixiでの惨敗を消し去りたい気持ちが、痛いほど伝わってきます。

この後、方便についての詭弁を展開しています。

 弥陀の救いで「方便」「仮門」と言われるのは、救われるまでの弥陀や釈迦の教導を言うのだから、方便が”要る”とか”要らぬ”とかの議論は馬鹿げている。「産前」のない「産後」など、あろうはずがないからである。

 方便が必要なければ、弥陀は十九に「修諸功徳の願」を建立し、釈迦は『観経』で定散二善を説き、聖人が「往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり」と『和讃』されるはずがなかろう。
 的々として示すお聖教の明証は、いずれも弥陀の勧める善だから、大いに努めるよう開導されたものばかりである。

こんなことを書いているのは、自力と他力の違いの判らぬ異安心の証拠です。子供を自分で産むとしか考えられないのが、決定的な間違いです。子供を産めない人が子供を賜わるのです。親鸞会は子供を産める人しか対象にしていませんが、阿弥陀仏の救いは子供を産めない大人の女性だけでなく、子供、年配者、そして男性にでも子供を授けるものです。子供とはもちろん信心のことです。
こんな愚かな譬えで自力の教えを説いても、親鸞聖人の教えとは無関係です。

しかしながら、子供を産める女性も当然いる訳ですから、そんな女性にも子供を授けさせるために、権仮方便を施されているのです。子供を産む可能性のない多くの人にはそんな権仮方便は最初から不要です。

思考停止の会員を騙す詭弁にはなっても、思考の回復している退会者を騙す詭弁とは程遠い御粗末さです。

 実行しなければ分からぬ結果だから、弥陀が五劫思惟の末に、「力一杯、もろもろの善(功徳)を修めてみよ」と、十九の願で善を勧められたのは、我々に実相を知らせる方法が他になかったからである。

これも大沼師からのパクリ損ないですが、男性や年配者の女性は、実行しなくても子供が産めないことは最初から判り切っています。
法蔵菩薩が御修行なされたのが六度万行と聞いて、自分も同じ行を修めようと思う人には、実行させてできぬことを知らせる方便が必要ですが、法蔵菩薩と同じ行などできる訳がないと思う圧倒的大多数の人は、実行しなくてもできないことは最初から判っています。

そして最後にまたまたお笑い勘違い根拠を出して説明しています。

 ここまで進んだ十方衆生を、親鸞聖人は、こう励まされている。

(原文)
【如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらもなおもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり】
            (正像末和讃)

(意訳)
「まだ十八の願の疑いは晴れないが、十九願の善の実践や二十願の念仏称えるまで進んだのは、とても素晴らしいことである」

 自力の善を勧める十九の願から、他力の名号(南無阿弥陀仏)の大功徳を説く二十の願へ進んだのは結構だが、二十願(果遂の誓)から十八願真実へ転入せよと、十方衆生を激励される聖人のお言葉である。
 同時に、弥陀が十八願・無碍の一道へ十方衆生を教導する、方向性の指授でもあろう。

これも昨年2月に、M野講師ではないと強く否定する一会員が、当ブログにコメントしてきてボコボコニされて逃亡した内容です。
まとめた内容は

誡疑讃を19願を勧められたお言葉と解釈して、真宗界から笑われていますよ

で書きました。昨年2月当時の詳しいやりとりを知りたい方は

典型的な断章取義教学のコメント欄

から読んでみて下さい。一言でいえば、この御和讃は20願成就文を言い換えられたもので、20願の行者を誉めたのでも、もちろん19願を勧められたお言葉でもありません。その逆で、20願の行者を厳しく誡められたお言葉です。本当に真宗界から笑われてますよ。

外部からボコボコニされて暴かれた詭弁でも、会員を騙すネタとして使えるならば、使えなくなるまで使ってやろう、という、まるで賞味期限が切れて腐った食品を会員に食べさせているようなものです。

親鸞会が仏法の団体でなく、高森会長が会員の後生を考えていないことだけは間違いありません。      

posted by 鴻 at 04:50| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする
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