前回、『浄土和讃』観経讃9首を紹介しましたが、方便の意味がこの9首でよく判ります。
以前に
でも述べましたが、8首は善巧方便についてです。最後の1首だけが権仮方便です。
善巧方便は、真実を私たちに認識できるように表わして下されたものですので、真実そのもので立てるべき方便です。一方の権仮方便は、真実を受け入れようとしない機のためのに一時的に用いられるもので、真実を受け入れ願い求める機にとっては不要であり、捨て去るべき方便です。
親鸞聖人が、「種々に善巧方便し」と仰っているいるのは、王舎城のドラマのことです。
「雑行を捨てよ」=「方便を捨てよ」
の方便はもちろん権仮方便のことです。
ここまで理解できれば、聖道門、19願、定散二善という権仮方便が、18願での救いを願求している人に要るのかどうか、説明は不要でしょう。
さて、親鸞会が”善の勧め”・”三願転入の教え”の根拠にしている「十九の願のこころ、諸行往生なり」という頭註のある『浄土和讃』を見てみましょう。
至心・発願・欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして
定散諸機をすすめけり
諸善万行ことごとく
至心発願せるゆゑに
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり
最初の御和讃は19願を単に言い換えられただけです。
次の御和讃は前回説明した通りですが、阿弥陀仏の19願意から釈尊が定散の機に対して諸善を勧められたということです。
最後の御和讃は、聖道門での諸善でも、それをそのまま阿弥陀仏に回向したならば、それはすべて「往生浄土の方便の善」、つまり雑行になると教えられたものです。
もちろん
権仮方便、雑行だから捨てよ
であって、
方便だからせよ
となる訳がないです。
『顕真』5月号では、この最後の御和讃の意訳を
十九願の諸善万行のお勧めは、弥陀が我々を救う(十八願)ためのお計らい(方便)だから、信心獲得の方便(宿善)にならぬ善はないのである
としていますが、ずれているのです。
一年前のmixiでの法論で、こうへい氏が
浄土の方便の善=宿善
といってボコボコにされましたが、同じことを未だに言っているのです。
詳しくは
を読んで頂ければ、親鸞会には進歩向上というものがないことがお判り頂けると思います。会員さえ騙せれば、外部から何を言われても構わない、という姿勢ですが、これこそが無二の善知識の本性です。
最後の御和讃の正しい現代語訳は
諸善万行は、 本来、 聖道門の行である。 けれども、 この行によって浄土往生を願わせたいと、 阿弥陀如来が至心発願の誓いをお立てくださったので、 浄土往生のための方便の善とならないものはなかったのである。
です。ここは聖道門の人を浄土門に導き入れるための願であることを仰ったのですが、たとえ19願に留まったままであったとしても、方便化土の利益を阿弥陀仏が与えて下さるという、意味も込められています。それが『末灯鈔』の
仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。
(現代語訳)
仏のご恩の深いことは、懈慢辺地や疑城胎宮といわれる方便の浄土に往生することでさえ、阿弥陀仏の四十八願の中に第十九願・第二十願として誓われているのです。そのはたらきがあるからこそ、思いはかることもできない楽しみにあうことができるのです。仏のご恩の深いことは、限りがありません。
です。化土往生を否定する高森会長には、「仏恩のふかきこと、そのきはもなし」は到底理解し得ないでしょう。自分のいうことに無条件で従った者だけが、救われるという超選民思想ですから、自分の恩を押し売りしているだけです。
先日、JR石勝線で特急火災がありましたが、車掌の指示に従わなかったために乗客全員無事でした。車掌の指示に従っていたら、死んでいた、と乗客は語ったそうですが、親鸞会も同じです。強欲で無知の指導者に無条件で従っていては、必堕無間になるだけです。退会者は異口同音に語ります。「高森会長の指示に従っていたら、念仏誹謗で無間地獄に堕ちていた」と。
現会員の皆さんは、これでも高森会長に従いますか?