2013年01月25日

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り17

高森会長の説く珍説”善のすすめ”・”三願転入論”が、大沼師の劣化コピーであることは、御理解頂けたと思います。これを踏まえれば、『顕真』5月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」についての詭弁が簡単に判ります。

内容はといえば、これまでと同じ根拠を挙げて、原文と明らかに異なる意訳を創作して、会員を騙すことに必死になっています。古文を少しでも学んだ人であれば、その愚かな意訳に気が付く筈ですが、思考停止していると疑問さえ生じないのでしょう。

『顕真』5月号「宿善と聴聞と善のすすめ」は、最近のワンパターンである『一念多念証文』

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

で始まっています。参考までに、この御文は大沼師からのパクリではなく、除名講師からのパクリであることは以前に

自称獲信者との論争 続編

で述べました。
ただし『観無量寿経』、定散二善については、前回の大沼師の説明を利用して、意味をすり替えているだけの姑息な騙しです。

基本的なことを再度説明すれば、釈尊は機に応じて法を説かれました。機がそれぞれ違いますので、「八万四千の法門」になったのです。それを大まかに分類すると

1.聖道の機―聖道門
2.定散の機―定善
3.散善の機―散善
4.逆悪の機―念仏

ということです。したがって、どれ1つ不要な教えである筈がありません。
この聖道門、定善、散善をまとめて親鸞聖人は「浄土の方便の善」「要門」「仮門」「方便の門」と仰ったのです。聖道の機、定善の機、散善の機に対して、真実に導き入れるための方便として説かれた教えということです。これを「雑行」と言われていることも

雑行の意味も知らない喜劇の主役

で説明しました。つまり聖道の機、定善の機、散善の機に対して

雑行を捨てよ」=「方便を捨てよ

と教えられただけで、「方便だからせよ」と解釈することなどあり得ないのです。
もちろん逆悪の機に対しては、最初から念仏以外に勧められていないのです。

以上のことは何も難しいことではありません。基礎の基礎です。

『一念多念証文』の次に挙げているのが『浄土和讃』

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

ですが、『顕真』でこの意訳がおもしろいです。

弥陀が十九の願を建てられた意を、釈迦は『観無量寿経』一巻に詳述し、すべての善を定散二善で説き明かし、十方衆生に勧められている

おかしいところがもうお判りですね。「定散諸機をすすめけり」は「十方衆生に勧められている」ではありません。「定善の機、散善の機に勧められている」です。逆悪の機には諸善を勧められていないことを証明する根拠ですが、それを逆悪の機に諸善を勧められているとすり替えているのです。

疑り深い人の為に、同じ『浄土和讃』で「『観経』意 九首」とある観経讃に以下の9首を親鸞聖人は著わしておられますので、説明しておきます。

恩徳広大釈迦如来
 韋提夫人に勅してぞ
 光台現国のそのなかに
 安楽世界をえらばしむ

頻婆娑羅王勅せしめ
 宿因その期をまたずして
 仙人殺害のむくひには
 七重のむろにとぢられき

阿闍世王は瞋怒して
 我母是賊としめしてぞ
 無道に母を害せんと
 つるぎをぬきてむかひける

耆婆・月光ねんごろに
 是旃陀羅とはぢしめて
 不宜住此と奏してぞ
 闍王の逆心いさめける

耆婆大臣おさへてぞ
 却行而退せしめつつ
 闍王つるぎをすてしめて
 韋提をみやに禁じける

弥陀・釈迦方便して
 阿難・目連・富楼那・韋提
 達多・闍王・頻婆娑羅
 耆婆・月光・行雨等

大聖おのおのもろともに
 凡愚底下のつみひとを
 逆悪もらさぬ誓願に
 方便引入せしめけり

釈迦韋提方便して
 浄土の機縁熟すれば
 雨行大臣証として
 闍王逆悪興ぜしむ

定散諸機各別の
 自力の三心ひるがへし
 如来利他の信心に
 通入せんとねがふべし

   以上『観経』意

『観無量寿経』に何が説かれているのかを親鸞聖人は9首でまとめられたのですが、9首中8首は、逆悪の機である韋提希を取り巻く登場人物による18願の救いのドラマについてです。韋提希に対して定散二善の言及は全くありません。最後の1首に、「定散諸機」と、韋提希とは別の定散の機に対して、自力定散二善を捨てて他力に帰せよと教えられているだけです。

つまり、最後の御和讃は、先の『一念多念証文』の御文と同じことを仰っていることがお判り頂けると思います。

要するに、『観無量寿経』は逆悪の機に対しての他力の救いを説かれていることを親鸞聖人は強調され、補足として定散の機に対しては自力を捨てて他力に帰すことを教えられていると仰ったに過ぎないのです。

高森会長の邪義は、定散の機に対する補足説明を、逆悪の機に対しての話に大胆にすり替えるという構図です。

少しだけ思考を働かせれば、高森会長を鼻で笑うことができますが、思考停止したままでは、簡単に騙される奴だ、と高森会長から馬鹿にされたまま人生を終えることになるのです。

posted by 鴻 at 04:54| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする
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