前回の続きです。
『本願寺なぜ答えぬ』と同じことが『顕真』平成23年3月号にも書かれています。
これは『三経往生文類』にも説かれているが、いまは『愚禿鈔』の文を挙げておこう。
として『愚禿鈔』の以下の御文を出してます。
ひそかに『観経』の三心往生を案ずれば、これすなはち諸機自力各別の三心なり。『大経』の三信に帰せしめんがためなり
これが親鸞会の言っているような意味にならないことは、すでに
で説明されています。この御文の前後を読めば、断章取義であることが簡単に判ります。『観経』の三心、19願では化土往生にしかならないので、『大経』の三信、18願に帰しなさいよ、という意味です。日本語の理解がお粗末であるから、このような解釈になるのです。そのこともすでに
で述べている通りです。『三経往生文類』については、全く御文を挙げていませんが、挙げたら間違いが判るからです。『三経往生文類』の内容については
曲がった教えだな、曲がった人物だな、と見るのが真っ直ぐな見方です。
でも述べておきました。
さて、今回は新たに『改邪鈔』の
三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心ぞと定め、『大経』所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさづけらるるところの仏智とわけられたり。しかるに、「方便より真実へ伝ひ、凡夫発起の三心より如来利他の信心に通入するぞ」とをしへおきまします祖師[親鸞]聖人の御釈を拝見せざるにや。
が加わりました。これはM野講師ではないと強く否定する人物がよく出す根拠で、親鸞会は、それを採用したのでしょう。これも先程の
を読んで頂ければお判りになると思いますが、「方便より真実へ伝ひ、凡夫発起の三心より如来利他の信心に通入するぞ」の「より」は捨てて、という意味です。その証拠にこの後には、
まづ能化・所化をたて、自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、今師(親鸞)御相承の口伝にはあひかなひはんべれ。
とあります。国語力のない高森会長と会員のために同じ意味のお言葉をまとめると
『観経』の至誠・深心等の三心
=自力の三心
=方便
=凡夫発起の三心
=自力『大経』所説の至心・信楽・欲生等の三信
=他力よりさづけらるるところの仏智
=真実
=如来利他の信心
=他力
です。「より」を通ってとしか考えられない愚かさが、ここでも判ります。
また親鸞会が好きな『御一代記聞書』の
蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。
を出していますが、この意訳がまた酷いです。
「蓮如上人が仰せになった。
『方便など要らないなどとは、言語道断言うべきことではない。恐ろしい大法謗である。方便からしか真実に入れぬと説かれた、親鸞聖人の教えが全く分かっていないのだ。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によってのみ弥陀の救いに値う(真実の信心を獲る)ことができるのである』」
「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」が「方便からしか真実に入れぬと説かれた、親鸞聖人の教えが全く分かっていないのだ」という意味になる訳がないでしょう。
方便を説くことで真実をより際立たせるという廃立の教えということです。
これは法然上人の『選択本願念仏集』にある
諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。
諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。
また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
という廃立の教えを元に仰っているのです。『御一代記聞書』の意味を判りやすくいえば、
諸善という方便は念仏の素晴らしさを顕され、捨てさせるために説かれた。だから善巧方便の念仏によって真実信心を獲させていただけるのだ。
です。
方便については何度も何度も述べて来ましたが、復習されたい方は
「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の曲解
みのもんたが人気あるのは、断言するからだ。君たちも断言していくようにしなさい!
これらも併せて読んで頂けるとよいと思います。
親鸞会のやっていることは豊田商事のペーパー商法と同様です。ないものをあるかのように装っているだけです。
会員は原文を読めないから、意訳の部分で騙そうという悪意が見え見えです。それを謗法罪というのです。
会員は馬鹿にされているのです。何を言っても簡単に騙されると見縊られているのですが、会員も知能を持った人間なら、少しは脳を使ってみてはどうでしょうか。