2013年01月25日

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り7

高森会長は『観無量寿経』を読んだことがないけれど、真実の教である『大無量寿経』は流石に読んでいるだろうと思われる方があるかもしれません。

ならば、最低限『大無量寿経』の三輩については知っている筈ですが、実際はどうでしょうか。

『選択本願念仏集』に、

『観経』の九品と『寿経』(大経)の三輩と、本これ開合の異なり。

とありますように、『観無量寿経』の九品を合すれば『大無量寿経』の三輩になり、『大無量寿経』の三輩を開けば『観無量寿経』の九品になるということですので、九品と三輩は同じことです。

では、『大無量寿経』三輩段の下輩を見てみますと、

それ下輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと欲することありて、たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども、まさに無上菩提の心を発して一向に意をもつぱらにして、乃至十念、無量寿仏を念じたてまつりて、その国に生れんと願ずべし。もし深法を聞きて歓喜信楽し、疑惑を生ぜずして、乃至一念、かの仏を念じたてまつりて、至誠心をもつてその国に生れんと願ぜん。この人、終りに臨んで、夢のごとくにかの仏を見たてまつりて、また往生を得。功徳・智慧は、次いで中輩のもののごとくならん

(現代語訳)

次に下輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、たとえさまざまな功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起こし、ひたすら心を一つにしてわずか十回ほどでも無量寿仏を念じて、その国に生れたいと願うのである。もし奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、疑いの心を起さず、わずか一回でも無量寿仏を念じ、まことの心を持ってその国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、このものは夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、その国に往生することができ、中輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである

と釈尊は仰っています。「たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども」と下輩にとっては、善と往生とは関係のないことを釈尊は仰っています。

参考までに上輩は

それ上輩といふは、家を捨て欲を棄てて沙門となり、菩提心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修してかの国に生れんと願ぜん。これらの衆生、寿終らんときに臨んで、無量寿仏は、もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはちかの仏に随ひてその国に往生す。すなはち七宝の華のなかより自然に化生して不退転に住せん。智慧勇猛にして神通自在ならん。このゆゑに阿難、それ衆生ありて今世において無量寿仏を見たてまつらんと欲はば、無上菩提の心を発し功徳を修行してかの国に生れんと願ずべし

(現代語訳)

上輩のものについていうと、家を捨て欲を離れて修行者となり、さとりを求める心を起して、ただひたすら無量寿仏を念じ、さまざまな功徳を積んで、その国に生れたいと願うのである。このものたちが命を終えようとするとき、無量寿仏は多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださる。そして無量寿仏にしたがってその国に往生すると、七つの宝でできた蓮の花におのずから生れて不退転の位に至り、智慧がたいへんすぐれ、自由自在な神通力を持つ身となるのである。だから阿難よ、この世で無量寿仏を見たてまつりたいと思うものは、この上ないさとりを求める心を起し、功徳を積んでその仏の国に生れたいと願うがよい

とあり、上輩は「家を捨て欲を棄てて沙門となり、(中略)もろもろの功徳を修して」です。在家の人のことではありません。高森会長と講師部員はここに属していそうな感じもありますが、マイホームを持ち、家庭を持ち、欲にまみれていますからここには入らないでしょう。もちろん功徳を修してもいません。

また中輩は、

それ中輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと願ずることありて、行じて沙門となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、まさに無上菩提の心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念ずべし。多少、善を修して斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、盾懸け灯を燃し、華を散じ香を焼きて、これをもつて回向してかの国に生れんと願ぜん。その人、終りに臨みて、無量寿仏はその身を化現したまふ。光明・相好はつぶさに真仏のごとし。もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはち化仏に随ひてその国に往生して不退転に住せん。功徳・智慧は、次いで上輩のもののごとくならん

(現代語訳)

次に中輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、上輩のもののように修行者となって大いに功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起し、ただひたすら無量寿仏を念じるのである。そして善い行いをし、八斎戒を守り、堂や塔をたて、仏像をつくり、修行者に食べものを供養し、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をして、それらの功徳をもってその国に生れたいと願うのである。このものが命を終えようとするとき、無量寿仏は化身のお姿を現してくださる。その身は光明もお姿もすべて報身そのままであり、多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださるのである。そこでその化身の仏にしたがってその国に往生し、不退転の位に至り、上輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである

と教えられています。
行じて沙門となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、(中略)多少、善を修して斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、盾懸け灯を燃し、華を散じ香を焼きて」ですが、親鸞会で勧めていることは、形式上はこれに当たるように見えます。
斎戒」とは、八戒斎のことで、本願寺出版社『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』の註には

八つの戒と一つの斎で八戒斎という。また八斎戒ともいい、略して八戒ともいう。在家の信者が一日一夜の期限を限って、出家者と同様に身心の行為動作を慎しむこと。五戒と衣・住・食の贅沢についての戒め。

@不殺生戒。
A不偸盗戒。
B不婬戒。
C不妄語戒。
D不飲酒戒。
E不香油塗身戒。身体に香油を塗ったりして化粧しない。
F不歌舞観聴戒。歌をうたったり舞をまったりしないと同時にそれを観てもいけない。
G不高広大床戒。高くゆったりとしたベッドに寝ない。
H不非時食戒。昼以後、何も食べない。以上の九のうち、
H不非時食戒を斎とするが、他にも諸説がある。

とありまして、親鸞会ではこれは全くできていません。それどころか高森会長、講師部員が積極的にこれらを破っています。
しかし次の「塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、盾懸け」は会員に対して大いに勧められています。次から次へと会館の建設費を募り、高森会長と講師部員に法礼・報謝と称して貢がせ、会館の装飾品購入費の献金を強要しているのですから、親鸞会では中輩での往生を説いているようにみえます。

ところが、親鸞会では、全人類は下輩、『観無量寿経』でいえば下品下生といっているのですから、根本的に理論がおかしいのです。全人類が下輩ならば、中輩にある善を勧めては、三輩の区別がついていないことになります。釈尊は何のために三輩を分けられたのかまるっきり理解できていないのです。中輩は、出家はしていませんが、善ができるから善を勧められているのです。下輩は、「たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども」ですから、善ができない人のことで、善のできない下輩に対して釈尊は善を勧められていません。実に単純なことですが、これさえ知らないのです。

僅かでも論理的な思考がある人ならば、次のように理解するはずです。

出家してレベルの高い善のできる人には、レベルの高い善を勧められていますが、もちろん必堕無間ではありません。
出家まではできませんが少し善のできる人にもそれ相応の善を勧められていますが、善のできる人はやはり必堕無間ではありません。
悪しかできない人には善を勧めてもできないのですから、善の勧めはありませんが、造っている悪の軽重に応じて、死後は六道、三悪道になり、無間業を造っているならば必堕無間になります。

高森会長理論は、釈尊を超えているのか、幼稚園児並なのか、どちらかでしょう。会員でも前者と思う人は、流石にいないと思いますが、もしいたら高森本仏論者でしょう。

高森会長は真実の教である『大無量寿経』も読んだことがないから、自分のいっていることがどれほど頓珍漢なことなのかも判らず、恥ずかしいとも思っていないのでしょう。
親鸞聖人の教えを真面目に学んだ人ならば、この理論に呆れ果てています。実際、本願寺は親鸞会を新興宗教と見做して、無視しています。

posted by 鴻 at 05:15| Comment(0) | 教義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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