宿善について語る時に、避けて通れないのが『観無量寿経』の下品下生です。
高森会長は『観無量寿経』を読んだことがないから、下品下生とはどんなことかもよく知りません。
善導大師は『玄義分』で
下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。
(現代語訳)
下品下生とは、
これらの衆生は、善くない業おこないである五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。
とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。
と解説しておられますように、必ず地獄に堕ちて長い間、窮まりのない苦しみを受ける五逆・十悪を造った者が、臨終に善知識から念仏を勧められて、その勧めに従って念仏によって往生できたのです。
平生に善をせず、しかも仏法を平生に聞いていない者が、臨終の念仏で救われるとは、因果の道理から言えば、考えにくいことです。
親鸞会の理論からいえば、あり得ない話です。
そこで、天台大師が著したとされる『浄土十疑論』では、過去世に善根を積んできた宿善業の強い人であったから、善知識に遇えて往生したのだ、と解釈したのです。
この『浄土十疑論』の影響をうけて、宿善について語られるようになりました。
『唯信鈔』には、
つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生す ることを得んや」と。
という問いから、宿善について述べられています。
これに対する回答が、
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。
です。
因果の道理かいらいえば、親鸞会の『教学聖典』にもある
宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。
となります。
ところが、この理屈で言えば「五逆の罪人」は「宿善すくなきもの」となりますが、その「宿善すくなき」の「五逆の罪人」でさえも臨終の十回の念仏で往生できる宿善があったのですから、「五逆をばつくらず」の念仏者が、一生涯念仏していることを、「宿善あさしとおもふべきや」なのです。
つまり、平生に仏法を聞いていない宿善の少ない五逆罪を造った人でさえ、往生できるのだから、平生から念仏の教えを聞いていて、五逆罪を造っていない皆さんには宿善がもちろんあり、五逆罪の人よりもなお往生できるといえるのです。
親鸞会の宿善論は、『唯信鈔』からいっても、完全に破綻しています。
『唯信鈔』を承けられて、覚如上人は『口伝鈔』で
宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。
とあります。因果の道理に基づけば、「宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。」となります。しかし覚如上人は、過去世に行なってきた善悪と、往生とを関係付けてはいけない、と仰っているのです。やはり、親鸞会の宿善論を完全否定されています。
「往生の大益をば如来の他力にまかせ」るのが、真宗の教えです。「かつて機のよきあしきに目をかけて」いるのが親鸞会です。
はっきりいいまして、高森会長は阿弥陀仏の本願が何も判っていないのです。
延暦寺第二探題であった禅瑜でさえ、『浄土十疑論』注釈書である『阿弥陀新十疑』を著して
未断惑の凡夫も、念仏の力によりて、往生することを得るなり。
十悪五逆を造るの人も、臨終の時、心念あたわずと雖も、口に南無阿弥陀仏と称するによりて、往生することを得るなり。
と解説しています。聖道門でも、「念仏の力」つまり阿弥陀仏のお力で、五逆の者も往生させることができると教えているのです。それが宿善の薄いものは宿善を厚くしなければ阿弥陀仏は往生させてくれない、とトンデモ珍説を唱えている親鸞会は何でしょうか。これを仏智疑惑といわれて、その罪の深さを親鸞聖人は、厳しく誡めておられます。
阿弥陀仏の本願に対する高森会長の理解は、お粗末を通り越して、滑稽です。
高森会長の話を聞くくらいなら、天台浄土教を聞いていた方が、どれだけましか、という話です。
昿劫多生の目的と言われて喜んでいる親鸞会の会員も、実に哀れです。平生に善などしたこともない、仏法をきいたこともない親殺しの者が、臨終になって始めて仏法を聞いて、十回の念仏で救われるのが阿弥陀仏の救いです。
『観無量寿経』を全く知らない高森会長から、救われない教えを昿劫多生の間聞いても、何兆円財施をしても、救われません。