「宿善」の基本的な意味が理解できていませんので、親鸞会がいくら根拠を挙げたところで、すべてお笑いのトンデモ解釈にしかなっていません。
『慕帰絵詞』に、覚如上人と唯善との間で行われた宿善についての論争が記されています。
法印(覚如上人)は、「往生は宿善開発の機こそ善知識に値ひて聞けば、即ち信心歓喜する故に報土得生すれ」と云々。
善公(唯善)は、「十方衆生と誓ひ給へば、更に宿善の有無を沙汰せず、仏願に遇へば、必ず往生を得るなり。さてこそ不思議の大願にて侍れ」と。此処に法印重ねて示すやう、
「『大無量寿経』には、『若人無善本 不得聞此経 清浄有戒者 乃獲聞正法 曾更見世尊 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜 驕慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 楽聴如是教』と説かれたり。
宿福深厚の機は即ちよくこの事を信じ、無宿善のものは驕慢弊懈怠にして、此法を信じ難しといふこと、明らけし。
随ひて光明寺和尚(善導大師)この文を受けて、『若人無善本 不得聞仏名 驕慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜』と釈せらる。
経釈共に歴然、争かこれらの明文を消して、宿善の有無を沙汰すべからずとは宣ふや」と。其の時又、唯公、「さては念仏往生にてはなくて、宿善往生と云ふべしや、如何」と。
また法印、「宿善に因て往生するとも申さばこそ、宿善往生とは申されめ。宿善の故に、知識に会ふ故に、聞く其の名号・信心・歓喜乃至一念する時分に往生決得し、定聚に住し、不退転に至るとは相伝し侍れ。是をなんぞ宿善往生とはいふべき哉」と。その後は互ひに言説を止めけり。
簡単にいえば、唯善が、「阿弥陀仏は十方衆生を救うと誓っておられるから、宿善の有無に関係なく救われるのだ」、と主張したのに対して、覚如上人が、「宿善が有るから善知識に遇うことができ、信心決定して救われるのだ」、と反論されたのです。
覚如上人は、「宿善」を善知識に遇う因縁という意味で仰っていたことがここでも判ります。
参考までに道元禅師は『正法眼蔵』の中で、
いまわれら宿善のたすくるによりて、如來の遺法にあふたてまつり、昼夜に三宝の宝号をききたてまつること、時とともにして不退なり。
と書いていますが、曹洞宗での「宿善」も「如來の遺法にあふ」因縁としています。
ところが、善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁である「宿善」を、獲信の因縁と理解してしまったのが親鸞会です。
「宿善」の説明として親鸞会で最近よく使われているのが『唯信鈔文意』の
おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。
です。『顕真』平成22年12月号の巻頭言にも使われています。
このお言葉も、善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁と理解すれば、筋が通ります。
しかし、この御文の前後を見ると、少しニュアンスが違ってきます。
この御文は、善導大師の『法事讃』にある「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」の解説をされた中の一部です。ここで
「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。
「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。(現代語訳)
「随縁雑善恐難生」というのは、「随縁雑善」とは、人々がそれぞれの縁にしたがい、それぞれの心にまかせてさまざまの善を修め、それを極楽に往生するために回向することである。すなわち八万四千の法門のことである。これはすべて自力の善根であるから、真実の報土には生れることができないと嫌われる。そのことを「恐難生」といわれている。「恐」は「おそれる」ということである。真実の報土にはさまざまな自力の善によって生れることができないことを気づかわれているのである、「難生」とは生れることができないというのである。
「故使如来選要法」というのは、釈尊があらゆる善のなかから南無阿弥陀仏の名号を選び取って、さまざまな濁りに満ちた時代のなかで、悪事を犯すものばかりであり、よこしまな考えにとらわれて真実の信心をおこすことのないものにお与えになったのであると知らなければならないというのである。このことを「選」といい、広く多くのものから選ぶという意味である。「要」はひとすじにということであり、求めるということであり、約束するということである。「法」とは名号である。
とあり、獲信のためには善を捨てて念仏を立てよ、との御教示です。その上、断章取義している先程のお言葉の次には
他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。
(現代語訳)
至心・信楽・欲生と本願に誓われている他力の信心を得た人は、決して念仏以外の善を謗ったり、阿弥陀仏以外の仏や菩薩を軽んじたりすることがあってはならないということである。
と付け加えられていますので、親鸞聖人が仰りたかったことは、獲信のためには捨てものの善ではあっても、18願の教えに遇う因縁になったのだから、善や諸仏・菩薩を謗ってはいけない、との誡めです。
従って、獲信のために善を勧められたお言葉ではありません。その逆ですが、行き過ぎて造悪無碍の邪義に陥ることを警戒されて補足されたものと判ります。
もしこれが善を勧められたお言葉というのであれば、「善根」だけを切り取らずに、「三恒河沙の諸仏」「余の仏聖」に仕えることも勧められたお言葉としなければなりません。しかしそれは絶対にいいません。”無二の善知識”たる高森会長に仕えよ、とは教えますが。
とにかく、親鸞会は断章取義ばかりですから、矛盾した論理で溢れかえっています。
意味を知ってか知らずか、誤謬が酷すぎて、外から親鸞会をみると本当に恥ずかしい団体です。