親鸞会は、蓮如上人の言行録である『御一代記聞書』が好きです。親鸞会の宿善論の根拠として、『御一代記聞書』からいくつも挙げられています。
『顕真』平成22年11月号にも、3つ引用されています。
【「宿善めでたし」と云うはわろし。御一流には「宿善有り難し」と申すがよく候】
(御一代記聞書)
(意訳)
「『宿善めでたし』と言うのはよろしくない。親鸞学徒は『宿善有り難し』というべきであろう」聞き難い仏法に遇えたのは、決して自分の意志で出来たことではないのだから、「おめでとう」と言うのは適当ではない。
絶対にあり得ないことが有ったのだから、
「有り難いことがあった」と感謝しなければならないことなのである。
と書いていますが、親鸞会でも認めている通り、「宿善」とは「自分の意志で出来たことではない」のですから、「宿善」を求めよ、と教えていることが矛盾しているのです。「絶対にあり得ないことが有った」とは、自分では求めても得られることの絶対に無いことがあった、という意味です。
自分で「宿善」を求めて、薄い「宿善」が厚くなったのならば、「宿善」を自分で得たのであり、「絶対にあり得ないことが有った」とは思えず、自分の行為により「あり得ることが有った」と思う筈です。
また、善ができなければ「宿善」とはなりませんので、1つの善もできない者と知らされることもありません。雑毒であろうが自分のやった善が「宿善」となったのですから、自分の善が獲信の少しは足しになった、としか知らされません。
こんな簡単なことさえも理解できないで、よくも支離滅裂な文章を書けるものだと感心してしまいました。
『口伝鈔』には
しかれば往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。
とありますように、「宿善」を阿弥陀仏の光明によるお育てと理解するするのが、真宗なのです。ですから、「宿善有り難し」になるのです。
実際に、宿善を求めよ、という根拠として以下の事が書かれています。
【「時節到来」という事、用心をもし、其の上に事の出来候を「時節到来」とはいうべし。無用心にて事の出来候を「時節到来」とはいわぬ事なり。聴聞を心がけての上の「宿善、無宿善」ともいう事なり。ただ信心は聞くにきはまる事なる由、仰せのよし候】
(御一代記聞書)
(意訳)
「『時節到来』ということは、心がけ求めて物事が成就したことを『時節到来した』というのである。
何にもせず心がけもせずに物事が出来上がったのを『時節到来』とは言わぬのだ。
真剣に聴聞を心がけている人のみに『宿善・無宿善』ということがあるのである。
信心獲得できるか否かは、ただ聞く一つで決するのである、と蓮如上人は仰せられた」「時節到来」とか「宿善到来」というから真宗の人たちは、宿善とは向こうの方からヨチヨチやってきて宿善開発するように思っている。
丁度、金持ちになるには福の神が来ればよいと待っているのと同じである。福の神が向こうからやってくるのではない、日々の努力精進が福の神になるのである。
求めてのみ「時節到来」ということがあるのである。「宿善」も待っているものではなく、用心して真剣な聴聞を求めてゆくものなのだ。
仏法は聞くにきわまると言われる所以である。
前回述べたように、「宿善・無宿善」とは、18願での救いを願うかどうかのことですから、聴聞を心掛けた上で「宿善・無宿善」ということが言えると蓮如上人が仰ったのです。
つまり、18願での救いを願う「宿善の機」ならば、聞く気持ちがありますが、18願での救いを願っていない「無宿善の機」は、親鸞聖人の教えを聞く気持ちがありません。
聴聞を「宿善を求めること」と考えるのが、そもそも間違いです。
存覚上人は『浄土見聞集』で、
聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。
と言われていますが、聴聞という自力の積み重ねで他力になるのではありません。「他力よりきき」であり、「自力のはからひちりばかりもよりつかざる」なのです。
以上のことが理解できれば、親鸞会で宿善の薄い人が厚くならなければ救われないとしている『御一代記聞書』の
陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。
も判ると思います。ここは蓮如上人御愛読の『安心決定鈔』を言い換えられたもので、
で、すでに説明されています。ここでの「宿善」は信心のことを指しています。真宗では常に信心と往生との関係で教えられます。善と往生との関係でいえば、”無関係”、と教えられます。
「陽気・陰気」とは、阿弥陀仏の光明によるお育てを表現されていて、18願での救いを願っている「陽気」の人は獲信が早いが、18願での救いを願わない「陰気」の人(外道を信じている人、善をしなければ往生できないと思っている人も含む)は獲信が遅い、ということです。
これを、宿善の薄い人は厚くしなければならない、と解釈するのは、獲信・往生とは別の目的で、会員に”善”を勧めているのです。