2013年01月25日

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り2

『観無量寿経』の下品下生で説かれているのは、五逆罪を造った極悪人という最下の者の臨終という最悪の状況での往生です。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

耳四郎よりも悪い五逆罪を造ったものが、平生には善もせず、仏法も聞いていない状況で、臨終になってようやく善知識に巡り遇って、初めて阿弥陀仏を念じて浄土を願ったのです。ところが善知識から勧められるままに念仏を称えようとするものの、臨終の苦しみのために、阿弥陀仏も浄土も念じられず、口先だけのお粗末な念仏にしかならなかったのですが、10回の念仏で往生したと説かれています。

ここで釈尊が教えられていることは、阿弥陀仏の18願は、最下の極悪人の最悪の状況でも救いたもう本願だということです。したがって、十方衆生洩れることなく救われるのです。ここで注目すべきは、下品下生のものは平生も臨終にも善を勧められてはいませんし、善をしてもいないことです。

では何もしなくても、誰でも救われるのかといえば、そうではありません。阿弥陀仏の18願を教えてくれる善知識に遇って、教えを聞いて念仏を称えた人が救われているのです。

ですから、条件としては善知識、教えに遇って、教えに従わないと救われないのです。
当たり前のことですが、キリスト教を信じていても、聖道門を信じていても、18願での救いを願わなければ救われません。

この18願での救いを願うかどうかが非常に重要になります。それを「宿善」といわれているのです。存覚上人の『浄土見聞集』に

この法を信ぜずはこれ無宿善のひとなり。
(中略)
おぼろげの縁にては、たやすくききうべからず。もしききえてよろこぶこころあらば、これ宿善のひとなり。善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふごころのなきはこれすなはち摂取の心光行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。
光明は智慧なり。この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり。仏智よりすすめられたてまりてくちに名号はとなへらるるなり。

とあるのも、また蓮如上人が『御文章』で

これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
(2帖目第11通)

とあるのも、「善知識」にあって18願を聞かなければ救われることはありません。それで存覚上人も蓮如上人も一番最初に「宿善」を出されて、次に「善知識」なのです。「善知識」の後に「宿善」ではないことをよく知らねばなりません。「善知識」、18願の教えに遇う条件が「宿善」なのです。

更には『口伝鈔』第2章では

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

とあり、『御文章』でも

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。
(3帖目第12通) 

されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。
しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。
このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。
(4帖目第1通)

無宿善の機にいたりてはちからおよばず。(4帖目第8通)

とあるように、善知識に遇って、18願の教えを聞いて18願で救われたいと願う人かどうかを覚如上人は「過去の宿善あつきもの」「宿福なきもの」と表現なされ、蓮如上人は「宿善の機」「無宿善の機」と仰っています。

ですから、「宿善」があって「善知識」に遇い、18願を聞いて、その通りに救われたならば、「宿善」のあったことを慶ぶのです。それを親鸞聖人は『教行信証』総序

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ

と仰り、『浄土文類聚鈔』 にも

たまたま信心を獲ば、遠く宿縁を慶べ

と仰っているのです。

これを善の勧めと誤解させているのが親鸞会です。高森会長は華光会にいた時には、「宿善」ということは言っていないので、親鸞会という組織を作って、金集め人集めを会員にさせる口実が、「宿善」だったのです。

posted by 鴻 at 05:20| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする
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