2013年01月25日

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り1

このブログは、平成22年から23年にかけて浄土真宗親鸞会において発刊された機関誌『顕真』の特集「宿善と聴聞と善のすすめ」について、「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して」で記事になったものをまとめたものです。



『顕真』平成22年11月号に、宿善についての解説が長々と書かれています。これまでと同じ主張で、何度も間違いが指摘されながら、修正しようという気持ちが全くなく、進歩が感じられません。
絶版になった『会報』を少し変えた程度の内容です。

この中で「頓機」と「漸機」という言葉を使って宿善の厚薄を説明しています。

 宿善の厚い人を「頓機」といい、宿善の薄い人を「漸機」ともいう。
 宿善の厚い人は弥陀の救いに頓くあえるから「頓機」といわれる。それに対して宿善の薄い人を「漸機」といわれるのは、救いにあうのが遅いからである。
 丁度、枯松葉と青松葉のようなもの。枯松葉はマッチ一本で火がつくが、青松葉はプスプス水をはじいてなかなか火がつきにくい。
 同様に宿善の厚い人は、枯松葉のように凡心(我々の心)に仏心(弥陀の大慈悲心)の火がつき、仏凡一体(絶対の幸福)と救われ燃えあがるのが速い。
 宿善薄き人は聞法を重ねても、なかなか弥陀の救いにあえず、昨日もカラッポ今日も落第、どれだけ聞けば助かるのか、どう聞けばよいのかとブスブス小言ばかりいって流転を続ける。

(中略)

 しかも宿善厚き頓機は極めて少なく、宿善薄き漸機は圧倒的に多いと説かれている。

 記録に残っているものから窺っても、法然上人のお弟子三百八十余人の中、頓機は親鸞聖人と蓮生房、耳四郎の三人のみ。
 聖人の門下では明法房弁円、ただ一人である。その外にもあったであろうが甚だ少なかったから、法然上人は『和語灯録』に、
「頓機の者は少なく、漸機の者は多し」
(宿善の厚い人は少なく、宿善の薄い人がほとんどである)
と仰せられている。

とありますが、法然上人はそのようなことを仰っていないことは、すでに何度も指摘されています。
『和語灯録』には、「頓機」と「漸機」という言葉自体がありません。つまり、根拠の捏造です。「頓機」「漸機」を法然上人のお言葉で探すと、

「やさしい浄土真宗の教え」
§7 聴聞(何を「聞く」のか?)

でも紹介されているように

人の心は頓機漸機とて二品に候なり。
頓機はききてやがて解る心にて候。漸機はようよう解る心にて候なり。
物詣なんどをし候に、足はやき人は一時にまいりつくところへ、
足おそきものは日晩しにかなわぬ様には候えども、
まいる心だにも候えば、ついにはとげ候ように、
ねごう御心だにわたらせ給い候わねば、
年月をかさねても御信心もふかくならせおわしますべきにて候。
『往生浄土用心』昭法全p.562

(訳)
人の心には頓機、漸機という二つがある。
頓機というのは聞いたならばすぐにその内容を理解できる人、
漸機というのは徐々に理解していく人のことをいう。
たとえば神社仏閣へ参詣するにしても、
足の速い人は、わずかな時間でそこまでたどりつくことができるのに、
足の遅い人は一日かけても着くことができないようなものである。
しかし、そこに行こうという心があれば、
最後には必ずお参りすることができるのと同じように、
浄土に往生したいと願う気持ちさえあるならば、
時間はかかっても御信心は深くなっていくに違いない。

と別の書物にあります。しかも、親鸞会で使っているような宿善の厚薄という意味で法然上人は仰っていません。
頓機」「漸機」とは、理解能力等のことを仰っているのですから、「漸機」が「頓機」になるように努力することではありません。判りやすくいえば、「漸機」の人は「漸機」のままで、「頓機」にならなくても救われることを仰っているのです。親鸞会の宿善論とは無関係です。

根拠も解釈も全くのデタラメです。これを元にして宿善論を展開していますから、全てがおかしいのです。

頓機」として名前の挙がっている耳四郎については、これまで何度も取り上げました。
耳四郎は、強盗、殺人を平気で犯してきた人で、獲信後も泥棒を止められなかったと伝えられています。ですから、耳四郎は過去世に悪を人一倍してきて、善をしてこなかった人で、獲信後でさえも過去世からの業で犯罪を犯し続けていたのです。

しかし耳四郎は、『観無量寿経』の下品三生の救いと合致しています。

法然上人の『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

とありまして、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれているのです。これは、親鸞会の宿善論を否定するもので、浄土門では常識中の常識です。こんなことをわざわざ説明しなければならないのも情けないことで、本願寺の熱心な門徒でも知っていることでしょう。

高森会長は、『観無量寿経』も『選択本願念仏集』も読んだことがないから、矛盾にも気が付いていないのでしょうが、そのことで学の低さをよりさらけ出しています。

尤も、高森会長も講師部員も法を犯すことには抵抗がなく、過去世に善を人一倍してきた人物でないことは明らかです。その反対ですから、善悪の基準も無茶苦茶です。

このように理論も言動もおかしい親鸞会を、正しいと信じることができるのは、マインドコントロールの効いている会員だけです。従って、宿善論を押し付けようとして無視された本願寺だけでなく、一般社会からも相手にされていません。

高森会長と講師部員は、少しは恥ずかしと思った方がいいですよ。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り2

『観無量寿経』の下品下生で説かれているのは、五逆罪を造った極悪人という最下の者の臨終という最悪の状況での往生です。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

耳四郎よりも悪い五逆罪を造ったものが、平生には善もせず、仏法も聞いていない状況で、臨終になってようやく善知識に巡り遇って、初めて阿弥陀仏を念じて浄土を願ったのです。ところが善知識から勧められるままに念仏を称えようとするものの、臨終の苦しみのために、阿弥陀仏も浄土も念じられず、口先だけのお粗末な念仏にしかならなかったのですが、10回の念仏で往生したと説かれています。

ここで釈尊が教えられていることは、阿弥陀仏の18願は、最下の極悪人の最悪の状況でも救いたもう本願だということです。したがって、十方衆生洩れることなく救われるのです。ここで注目すべきは、下品下生のものは平生も臨終にも善を勧められてはいませんし、善をしてもいないことです。

では何もしなくても、誰でも救われるのかといえば、そうではありません。阿弥陀仏の18願を教えてくれる善知識に遇って、教えを聞いて念仏を称えた人が救われているのです。

ですから、条件としては善知識、教えに遇って、教えに従わないと救われないのです。
当たり前のことですが、キリスト教を信じていても、聖道門を信じていても、18願での救いを願わなければ救われません。

この18願での救いを願うかどうかが非常に重要になります。それを「宿善」といわれているのです。存覚上人の『浄土見聞集』に

この法を信ぜずはこれ無宿善のひとなり。
(中略)
おぼろげの縁にては、たやすくききうべからず。もしききえてよろこぶこころあらば、これ宿善のひとなり。善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふごころのなきはこれすなはち摂取の心光行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。
光明は智慧なり。この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり。仏智よりすすめられたてまりてくちに名号はとなへらるるなり。

とあるのも、また蓮如上人が『御文章』で

これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
(2帖目第11通)

とあるのも、「善知識」にあって18願を聞かなければ救われることはありません。それで存覚上人も蓮如上人も一番最初に「宿善」を出されて、次に「善知識」なのです。「善知識」の後に「宿善」ではないことをよく知らねばなりません。「善知識」、18願の教えに遇う条件が「宿善」なのです。

更には『口伝鈔』第2章では

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

とあり、『御文章』でも

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。
(3帖目第12通) 

されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。
しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。
このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。
(4帖目第1通)

無宿善の機にいたりてはちからおよばず。(4帖目第8通)

とあるように、善知識に遇って、18願の教えを聞いて18願で救われたいと願う人かどうかを覚如上人は「過去の宿善あつきもの」「宿福なきもの」と表現なされ、蓮如上人は「宿善の機」「無宿善の機」と仰っています。

ですから、「宿善」があって「善知識」に遇い、18願を聞いて、その通りに救われたならば、「宿善」のあったことを慶ぶのです。それを親鸞聖人は『教行信証』総序

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ

と仰り、『浄土文類聚鈔』 にも

たまたま信心を獲ば、遠く宿縁を慶べ

と仰っているのです。

これを善の勧めと誤解させているのが親鸞会です。高森会長は華光会にいた時には、「宿善」ということは言っていないので、親鸞会という組織を作って、金集め人集めを会員にさせる口実が、「宿善」だったのです。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り3

親鸞会は、蓮如上人の言行録である『御一代記聞書』が好きです。親鸞会の宿善論の根拠として、『御一代記聞書』からいくつも挙げられています。
『顕真』平成22年11月号にも、3つ引用されています。

【「宿善めでたし」と云うはわろし。御一流には「宿善有り難し」と申すがよく候】
                                 (御一代記聞書)
(意訳)
「『宿善めでたし』と言うのはよろしくない。親鸞学徒は『宿善有り難し』というべきであろう」

 聞き難い仏法に遇えたのは、決して自分の意志で出来たことではないのだから、「おめでとう」と言うのは適当ではない。
 絶対にあり得ないことが有ったのだから、
「有り難いことがあった」と感謝しなければならないことなのである。

と書いていますが、親鸞会でも認めている通り、「宿善」とは「自分の意志で出来たことではない」のですから、「宿善」を求めよ、と教えていることが矛盾しているのです。「絶対にあり得ないことが有った」とは、自分では求めても得られることの絶対に無いことがあった、という意味です。
自分で「宿善」を求めて、薄い「宿善」が厚くなったのならば、「宿善」を自分で得たのであり、「絶対にあり得ないことが有った」とは思えず、自分の行為により「あり得ることが有った」と思う筈です。
また、善ができなければ「宿善」とはなりませんので、1つの善もできない者と知らされることもありません。雑毒であろうが自分のやった善が「宿善」となったのですから、自分の善が獲信の少しは足しになった、としか知らされません。
こんな簡単なことさえも理解できないで、よくも支離滅裂な文章を書けるものだと感心してしまいました。

『口伝鈔』には

しかれば往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。

とありますように、「宿善」を阿弥陀仏の光明によるお育てと理解するするのが、真宗なのです。ですから、「宿善有り難し」になるのです。

実際に、宿善を求めよ、という根拠として以下の事が書かれています。

【「時節到来」という事、用心をもし、其の上に事の出来候を「時節到来」とはいうべし。無用心にて事の出来候を「時節到来」とはいわぬ事なり。聴聞を心がけての上の「宿善、無宿善」ともいう事なり。ただ信心は聞くにきはまる事なる由、仰せのよし候】
                                 (御一代記聞書)
(意訳)
「『時節到来』ということは、心がけ求めて物事が成就したことを『時節到来した』というのである。
 何にもせず心がけもせずに物事が出来上がったのを『時節到来』とは言わぬのだ。
 真剣に聴聞を心がけている人のみに『宿善・無宿善』ということがあるのである。
 信心獲得できるか否かは、ただ聞く一つで決するのである、と蓮如上人は仰せられた」

「時節到来」とか「宿善到来」というから真宗の人たちは、宿善とは向こうの方からヨチヨチやってきて宿善開発するように思っている。
 丁度、金持ちになるには福の神が来ればよいと待っているのと同じである。福の神が向こうからやってくるのではない、日々の努力精進が福の神になるのである。
 求めてのみ「時節到来」ということがあるのである。「宿善」も待っているものではなく、用心して真剣な聴聞を求めてゆくものなのだ。
 仏法は聞くにきわまると言われる所以である。

前回述べたように、「宿善・無宿善」とは、18願での救いを願うかどうかのことですから、聴聞を心掛けた上で「宿善・無宿善」ということが言えると蓮如上人が仰ったのです。
つまり、18願での救いを願う「宿善の機」ならば、聞く気持ちがありますが、18願での救いを願っていない「無宿善の機」は、親鸞聖人の教えを聞く気持ちがありません。
聴聞を「宿善を求めること」と考えるのが、そもそも間違いです。
存覚上人は『浄土見聞集』で、

聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。

と言われていますが、聴聞という自力の積み重ねで他力になるのではありません。「他力よりきき」であり、「自力のはからひちりばかりもよりつかざる」なのです。

以上のことが理解できれば、親鸞会で宿善の薄い人が厚くならなければ救われないとしている『御一代記聞書』の

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。

も判ると思います。ここは蓮如上人御愛読の『安心決定鈔』を言い換えられたもので、

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは3

で、すでに説明されています。ここでの「宿善」は信心のことを指しています。真宗では常に信心と往生との関係で教えられます。善と往生との関係でいえば、”無関係”、と教えられます。
陽気・陰気」とは、阿弥陀仏の光明によるお育てを表現されていて、18願での救いを願っている「陽気」の人は獲信が早いが、18願での救いを願わない「陰気」の人(外道を信じている人、善をしなければ往生できないと思っている人も含む)は獲信が遅い、ということです。
これを、宿善の薄い人は厚くしなければならない、と解釈するのは、獲信・往生とは別の目的で、会員に””を勧めているのです。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り4

宿善」の基本的な意味が理解できていませんので、親鸞会がいくら根拠を挙げたところで、すべてお笑いのトンデモ解釈にしかなっていません。

『慕帰絵詞』に、覚如上人と唯善との間で行われた宿善についての論争が記されています。

法印(覚如上人)は、「往生は宿善開発の機こそ善知識に値ひて聞けば、即ち信心歓喜する故に報土得生すれ」と云々。
善公(唯善)は、「十方衆生と誓ひ給へば、更に宿善の有無を沙汰せず、仏願に遇へば、必ず往生を得るなり。さてこそ不思議の大願にて侍れ」と。

此処に法印重ねて示すやう、
「『大無量寿経』には、『若人無善本 不得聞此経 清浄有戒者 乃獲聞正法 曾更見世尊 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜 驕慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 楽聴如是教』と説かれたり。
宿福深厚の機は即ちよくこの事を信じ、無宿善のものは驕慢弊懈怠にして、此法を信じ難しといふこと、明らけし。
随ひて光明寺和尚(善導大師)この文を受けて、『若人無善本 不得聞仏名 驕慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜』と釈せらる。
経釈共に歴然、争かこれらの明文を消して、宿善の有無を沙汰すべからずとは宣ふや」と。

其の時又、唯公、「さては念仏往生にてはなくて、宿善往生と云ふべしや、如何」と。
また法印、「宿善に因て往生するとも申さばこそ、宿善往生とは申されめ。宿善の故に、知識に会ふ故に、聞く其の名号・信心・歓喜乃至一念する時分に往生決得し、定聚に住し、不退転に至るとは相伝し侍れ。是をなんぞ宿善往生とはいふべき哉」と。

その後は互ひに言説を止めけり。

簡単にいえば、唯善が、「阿弥陀仏は十方衆生を救うと誓っておられるから、宿善の有無に関係なく救われるのだ」、と主張したのに対して、覚如上人が、「宿善が有るから善知識に遇うことができ、信心決定して救われるのだ」、と反論されたのです。

覚如上人は、「宿善」を善知識に遇う因縁という意味で仰っていたことがここでも判ります。
参考までに道元禅師は『正法眼蔵』の中で、

いまわれら宿善のたすくるによりて、如來の遺法にあふたてまつり、昼夜に三宝の宝号をききたてまつること、時とともにして不退なり。

と書いていますが、曹洞宗での「宿善」も「如來の遺法にあふ」因縁としています。

ところが、善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁である「宿善」を、獲信の因縁と理解してしまったのが親鸞会です。

宿善」の説明として親鸞会で最近よく使われているのが『唯信鈔文意』

おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。

です。『顕真』平成22年12月号の巻頭言にも使われています。
このお言葉も、善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁と理解すれば、筋が通ります。
しかし、この御文の前後を見ると、少しニュアンスが違ってきます。

この御文は、善導大師の『法事讃』にある「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」の解説をされた中の一部です。ここで

 「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。
 「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。

(現代語訳)

 「随縁雑善恐難生」というのは、「随縁雑善」とは、人々がそれぞれの縁にしたがい、それぞれの心にまかせてさまざまの善を修め、それを極楽に往生するために回向することである。すなわち八万四千の法門のことである。これはすべて自力の善根であるから、真実の報土には生れることができないと嫌われる。そのことを「恐難生」といわれている。「恐」は「おそれる」ということである。真実の報土にはさまざまな自力の善によって生れることができないことを気づかわれているのである、「難生」とは生れることができないというのである。
 「故使如来選要法」というのは、釈尊があらゆる善のなかから南無阿弥陀仏の名号を選び取って、さまざまな濁りに満ちた時代のなかで、悪事を犯すものばかりであり、よこしまな考えにとらわれて真実の信心をおこすことのないものにお与えになったのであると知らなければならないというのである。このことを「選」といい、広く多くのものから選ぶという意味である。「要」はひとすじにということであり、求めるということであり、約束するということである。「法」とは名号である。

とあり、獲信のためには善を捨てて念仏を立てよ、との御教示です。その上、断章取義している先程のお言葉の次には

他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。

(現代語訳)

至心・信楽・欲生と本願に誓われている他力の信心を得た人は、決して念仏以外の善を謗ったり、阿弥陀仏以外の仏や菩薩を軽んじたりすることがあってはならないということである。

と付け加えられていますので、親鸞聖人が仰りたかったことは、獲信のためには捨てものの善ではあっても、18願の教えに遇う因縁になったのだから、善や諸仏・菩薩を謗ってはいけない、との誡めです。
従って、獲信のために善を勧められたお言葉ではありません。その逆ですが、行き過ぎて造悪無碍の邪義に陥ることを警戒されて補足されたものと判ります。
もしこれが善を勧められたお言葉というのであれば、「善根」だけを切り取らずに、「三恒河沙の諸仏」「余の仏聖」に仕えることも勧められたお言葉としなければなりません。しかしそれは絶対にいいません。”無二の善知識”たる高森会長に仕えよ、とは教えますが。

とにかく、親鸞会は断章取義ばかりですから、矛盾した論理で溢れかえっています。
意味を知ってか知らずか、誤謬が酷すぎて、外から親鸞会をみると本当に恥ずかしい団体です。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り5

親鸞聖人は、「宿善」という言葉を御著書の中で使われていませので、真宗における「宿善」の定義は、覚如上人によってなされたといえます。

前回紹介しました『慕帰絵詞』に記された、覚如上人と唯善との論争についてもう少しみてみます。

この論争の結論については、

その後は互ひに言説を止めけり。

となっています。いわゆる玉虫色の決着です。といいますのは、覚如上人と唯善とは、「宿善」の定義が違っていたままの論争であったと思います。

覚如上人は、

宿善の故に、知識に会ふ故に、聞く其の名号・信心・歓喜乃至一念する時分に往生決得し、定聚に住し、不退転に至るとは相伝し侍れ。

と仰っているのに対して、唯善は

十方衆生と誓ひ給へば、更に宿善の有無を沙汰せず、仏願に遇へば、必ず往生を得るなり。さてこそ不思議の大願にて侍れ

との主張です。「宿善」の定義によって、両方とも正しいと言えるでしょう。
覚如上人が仰っている「宿善」とは

善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁

ということは前回述べました。
一方の唯善の定義は、

過去世の善根

という通仏教的意味です。
唯善は、過去世の善根と18願との救いは無関係であることを言われているのです。

覚如上人も『口伝鈔』で、

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし

たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。

と仰っています。過去世にどれだけ善をしてきたかどうかということは、往生・獲信とは関係がないことを強調されています。
つまり、覚如上人、唯善共に、親鸞会で教えているところの宿善論を完全に否定されているのです。

では覚如上人と唯善との根本的な違いは何かということになりますが、それは前々回紹介しました『口伝鈔』

しかれば往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。

です。覚如上人は「宿善」を阿弥陀仏の光明によるお育て、と定義されているのです。
それを蓮如上人も引き継がれて、『御文章』2帖目第13通

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。

と仰っています。
阿弥陀仏の慈悲は平等でも、機がそれぞれ違うために、「宿善の機」「無宿善の機」と差ができてしまうのです。

覚如上人、蓮如上人が仰っている「宿善の機」とは、18願での救いを願い求めている人のことであり、「無宿善の機」とは、18願での救いを願わない人のことです。
宿善の機」と「無宿善の機」の違いは、18願での救いを願うかどうかです。

善知識に遇わず、18願の教えに遇わなければ、救われることはありません。
宿善の機」とは善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁のあった人です。
無宿善の機」は善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁のない人、もしくは遇っていても信じる気持ちがなければこの因縁のない人です。

したがって、「宿善の機」に対してと「無宿善の機」に対しての話が違ってくるのは当然なことです。それで『御文章』3帖目第12通

されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

と仰っているのです。

以上を踏まえれば、釈尊が八万四千の法門といわれる多くの方便を駆使された理由も、阿弥陀仏が19願、20願を建てられた理由も判る筈です。

18願を信じられない、18願を願う気のない「無宿善の機」に、18願を説いても誹謗するだけです。そのために、18願を信じて願い求める気持ちにさせるまでの手立てとして、権仮方便の聖道門、19願、20願が必要であったのです。
しかし、すでに18願を信じて願い求めている「宿善の機」には、わざわざ遠回りをさせる必要がありませんので、「宿善の機」に対しては18願1つを説き聞かせるのが善知識の役割になります。

親鸞会では、信前の人は同じ方便の道を通らなければならないと教えていますが、機が違うのですから、すべての人が同じ方便の道を通ることにはなりません。人それぞれ機が違いますので、釈尊は機に応じて「八万四千の法門」を説かねばならなかったのです。親鸞会でも対機説法という言葉は知っていますが、その意味を知らないのでしょう。

無宿善の機」に対して説かれた「八万四千の法門」を「浄土の方便の善」「要門」「仮門」とまとめて仰ったのが、親鸞会の好きな『一念多念証文』のお言葉です。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

権仮方便である「八万四千の法門」は「無宿善の機」に対して説かれ、真実18願は「宿善の機」に対して説かれていることも理解できないのですから、親鸞会はお粗末極まりないと言わざるを得ません。

これでも判らない人は、蓮如上人のお言葉をしっかり読んで理解しておきましょう。

この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り6

宿善について語る時に、避けて通れないのが『観無量寿経』の下品下生です。
高森会長は『観無量寿経』を読んだことがないから、下品下生とはどんなことかもよく知りません。

善導大師は『玄義分』

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

下品下生とは、
これらの衆生は、善くない業おこないである五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。
とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

と解説しておられますように、必ず地獄に堕ちて長い間、窮まりのない苦しみを受ける五逆・十悪を造った者が、臨終に善知識から念仏を勧められて、その勧めに従って念仏によって往生できたのです。
平生に善をせず、しかも仏法を平生に聞いていない者が、臨終の念仏で救われるとは、因果の道理から言えば、考えにくいことです。
親鸞会の理論からいえば、あり得ない話です。

そこで、天台大師が著したとされる『浄土十疑論』では、過去世に善根を積んできた宿善業の強い人であったから、善知識に遇えて往生したのだ、と解釈したのです。

この『浄土十疑論』の影響をうけて、宿善について語られるようになりました。

『唯信鈔』には、

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生す ることを得んや」と。

という問いから、宿善について述べられています。

これに対する回答が、

これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

です。
因果の道理かいらいえば、親鸞会の『教学聖典』にもある

宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。

となります。
ところが、この理屈で言えば「五逆の罪人」は「宿善すくなきもの」となりますが、その「宿善すくなき」の「五逆の罪人」でさえも臨終の十回の念仏で往生できる宿善があったのですから、「五逆をばつくらず」の念仏者が、一生涯念仏していることを、「宿善あさしとおもふべきや」なのです。
つまり、平生に仏法を聞いていない宿善の少ない五逆罪を造った人でさえ、往生できるのだから、平生から念仏の教えを聞いていて、五逆罪を造っていない皆さんには宿善がもちろんあり、五逆罪の人よりもなお往生できるといえるのです。

親鸞会の宿善論は、『唯信鈔』からいっても、完全に破綻しています。

『唯信鈔』を承けられて、覚如上人は『口伝鈔』

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

とあります。因果の道理に基づけば、「宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。」となります。しかし覚如上人は、過去世に行なってきた善悪と、往生とを関係付けてはいけない、と仰っているのです。やはり、親鸞会の宿善論を完全否定されています。

往生の大益をば如来の他力にまかせ」るのが、真宗の教えです。「かつて機のよきあしきに目をかけて」いるのが親鸞会です。

はっきりいいまして、高森会長は阿弥陀仏の本願が何も判っていないのです。

延暦寺第二探題であった禅瑜でさえ、『浄土十疑論』注釈書である『阿弥陀新十疑』を著して

未断惑の凡夫も、念仏の力によりて、往生することを得るなり。

十悪五逆を造るの人も、臨終の時、心念あたわずと雖も、口に南無阿弥陀仏と称するによりて、往生することを得るなり。

と解説しています。聖道門でも、「念仏の力」つまり阿弥陀仏のお力で、五逆の者も往生させることができると教えているのです。それが宿善の薄いものは宿善を厚くしなければ阿弥陀仏は往生させてくれない、とトンデモ珍説を唱えている親鸞会は何でしょうか。これを仏智疑惑といわれて、その罪の深さを親鸞聖人は、厳しく誡めておられます。

阿弥陀仏の本願に対する高森会長の理解は、お粗末を通り越して、滑稽です。
高森会長の話を聞くくらいなら、天台浄土教を聞いていた方が、どれだけましか、という話です。

昿劫多生の目的と言われて喜んでいる親鸞会の会員も、実に哀れです。平生に善などしたこともない、仏法をきいたこともない親殺しの者が、臨終になって始めて仏法を聞いて、十回の念仏で救われるのが阿弥陀仏の救いです。

『観無量寿経』を全く知らない高森会長から、救われない教えを昿劫多生の間聞いても、何兆円財施をしても、救われません。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り7

高森会長は『観無量寿経』を読んだことがないけれど、真実の教である『大無量寿経』は流石に読んでいるだろうと思われる方があるかもしれません。

ならば、最低限『大無量寿経』の三輩については知っている筈ですが、実際はどうでしょうか。

『選択本願念仏集』に、

『観経』の九品と『寿経』(大経)の三輩と、本これ開合の異なり。

とありますように、『観無量寿経』の九品を合すれば『大無量寿経』の三輩になり、『大無量寿経』の三輩を開けば『観無量寿経』の九品になるということですので、九品と三輩は同じことです。

では、『大無量寿経』三輩段の下輩を見てみますと、

それ下輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと欲することありて、たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども、まさに無上菩提の心を発して一向に意をもつぱらにして、乃至十念、無量寿仏を念じたてまつりて、その国に生れんと願ずべし。もし深法を聞きて歓喜信楽し、疑惑を生ぜずして、乃至一念、かの仏を念じたてまつりて、至誠心をもつてその国に生れんと願ぜん。この人、終りに臨んで、夢のごとくにかの仏を見たてまつりて、また往生を得。功徳・智慧は、次いで中輩のもののごとくならん

(現代語訳)

次に下輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、たとえさまざまな功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起こし、ひたすら心を一つにしてわずか十回ほどでも無量寿仏を念じて、その国に生れたいと願うのである。もし奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、疑いの心を起さず、わずか一回でも無量寿仏を念じ、まことの心を持ってその国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、このものは夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、その国に往生することができ、中輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである

と釈尊は仰っています。「たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども」と下輩にとっては、善と往生とは関係のないことを釈尊は仰っています。

参考までに上輩は

それ上輩といふは、家を捨て欲を棄てて沙門となり、菩提心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修してかの国に生れんと願ぜん。これらの衆生、寿終らんときに臨んで、無量寿仏は、もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはちかの仏に随ひてその国に往生す。すなはち七宝の華のなかより自然に化生して不退転に住せん。智慧勇猛にして神通自在ならん。このゆゑに阿難、それ衆生ありて今世において無量寿仏を見たてまつらんと欲はば、無上菩提の心を発し功徳を修行してかの国に生れんと願ずべし

(現代語訳)

上輩のものについていうと、家を捨て欲を離れて修行者となり、さとりを求める心を起して、ただひたすら無量寿仏を念じ、さまざまな功徳を積んで、その国に生れたいと願うのである。このものたちが命を終えようとするとき、無量寿仏は多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださる。そして無量寿仏にしたがってその国に往生すると、七つの宝でできた蓮の花におのずから生れて不退転の位に至り、智慧がたいへんすぐれ、自由自在な神通力を持つ身となるのである。だから阿難よ、この世で無量寿仏を見たてまつりたいと思うものは、この上ないさとりを求める心を起し、功徳を積んでその仏の国に生れたいと願うがよい

とあり、上輩は「家を捨て欲を棄てて沙門となり、(中略)もろもろの功徳を修して」です。在家の人のことではありません。高森会長と講師部員はここに属していそうな感じもありますが、マイホームを持ち、家庭を持ち、欲にまみれていますからここには入らないでしょう。もちろん功徳を修してもいません。

また中輩は、

それ中輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと願ずることありて、行じて沙門となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、まさに無上菩提の心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念ずべし。多少、善を修して斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け灯を燃し、華を散じ香を焼きて、これをもつて回向してかの国に生れんと願ぜん。その人、終りに臨みて、無量寿仏はその身を化現したまふ。光明・相好はつぶさに真仏のごとし。もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはち化仏に随ひてその国に往生して不退転に住せん。功徳・智慧は、次いで上輩のもののごとくならん

(現代語訳)

次に中輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、上輩のもののように修行者となって大いに功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起し、ただひたすら無量寿仏を念じるのである。そして善い行いをし、八斎戒を守り、堂や塔をたて、仏像をつくり、修行者に食べものを供養し、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をして、それらの功徳をもってその国に生れたいと願うのである。このものが命を終えようとするとき、無量寿仏は化身のお姿を現してくださる。その身は光明もお姿もすべて報身そのままであり、多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださるのである。そこでその化身の仏にしたがってその国に往生し、不退転の位に至り、上輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである

と教えられています。
行じて沙門となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、(中略)多少、善を修して斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け灯を燃し、華を散じ香を焼きて」ですが、親鸞会で勧めていることは、形式上はこれに当たるように見えます。
斎戒」とは、八戒斎のことで、本願寺出版社『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』の註には

八つの戒と一つの斎で八戒斎という。また八斎戒ともいい、略して八戒ともいう。在家の信者が一日一夜の期限を限って、出家者と同様に身心の行為動作を慎しむこと。五戒と衣・住・食の贅沢についての戒め。

①不殺生戒。
②不偸盗戒。
③不婬戒。
④不妄語戒。
⑤不飲酒戒。
⑥不香油塗身戒。身体に香油を塗ったりして化粧しない。
⑦不歌舞観聴戒。歌をうたったり舞をまったりしないと同時にそれを観てもいけない。
⑧不高広大床戒。高くゆったりとしたベッドに寝ない。
⑨不非時食戒。昼以後、何も食べない。以上の九のうち、
⑨不非時食戒を斎とするが、他にも諸説がある。

とありまして、親鸞会ではこれは全くできていません。それどころか高森会長、講師部員が積極的にこれらを破っています。
しかし次の「塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け」は会員に対して大いに勧められています。次から次へと会館の建設費を募り、高森会長と講師部員に法礼・報謝と称して貢がせ、会館の装飾品購入費の献金を強要しているのですから、親鸞会では中輩での往生を説いているようにみえます。

ところが、親鸞会では、全人類は下輩、『観無量寿経』でいえば下品下生といっているのですから、根本的に理論がおかしいのです。全人類が下輩ならば、中輩にある善を勧めては、三輩の区別がついていないことになります。釈尊は何のために三輩を分けられたのかまるっきり理解できていないのです。中輩は、出家はしていませんが、善ができるから善を勧められているのです。下輩は、「たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども」ですから、善ができない人のことで、善のできない下輩に対して釈尊は善を勧められていません。実に単純なことですが、これさえ知らないのです。

僅かでも論理的な思考がある人ならば、次のように理解するはずです。

出家してレベルの高い善のできる人には、レベルの高い善を勧められていますが、もちろん必堕無間ではありません。
出家まではできませんが少し善のできる人にもそれ相応の善を勧められていますが、善のできる人はやはり必堕無間ではありません。
悪しかできない人には善を勧めてもできないのですから、善の勧めはありませんが、造っている悪の軽重に応じて、死後は六道、三悪道になり、無間業を造っているならば必堕無間になります。

高森会長理論は、釈尊を超えているのか、幼稚園児並なのか、どちらかでしょう。会員でも前者と思う人は、流石にいないと思いますが、もしいたら高森本仏論者でしょう。

高森会長は真実の教である『大無量寿経』も読んだことがないから、自分のいっていることがどれほど頓珍漢なことなのかも判らず、恥ずかしいとも思っていないのでしょう。
親鸞聖人の教えを真面目に学んだ人ならば、この理論に呆れ果てています。実際、本願寺は親鸞会を新興宗教と見做して、無視しています。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り8

教えを捻じ曲げても平気なのは、自己の名利のことしか考えていないからです。金集め、人集めが、往生と何の関係もないことは、少しでも聖教を読んでみれば判る話です。

高森会長が35周年記念大会で三願転入を言い始めるまでは、宿善のことを強調していましたが、共に目的は同じです。

さて、『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤りについて、もう少し述べてみたいと思います。

親鸞会の本意である”善のすすめ”を隠すために、『顕真』平成22年12月号と平成23年1月号は”聴聞のすすめ”に徹しています。”善のすすめ”を言わなければ、おかしいことを言っていても、それほど非難される事はないと思っているのでしょう。
それでも問題はいくつもありますが、大きな問題だけを取り上げておきます。

善導大師は、「ユルサレテキク」(聴)から、
弥陀の勅命を「シンジテキク」(聞)までの心
(信仰)の道程を、「二河白道の譬喩」でこう
開顕されている。

(中略)

「白道」は、聞法心(弥陀の救いを求める心)
を喩えたものだが、求める心があっても微弱だ
から四五寸の細い道と、説く。
「群賊」や「悪獣」とは、聞法心を妨げるすべ
てのものを表す。

(中略)

これは十方衆生が弥陀に救われるまでの信仰
(心)の道程を、巧みに教えられた善導大師の
有名な警えである。

如何でしょうか。高森会長の話しか聞いた事がない人は、どこが問題なのかと思われるかも知れませんが、二河白道の譬喩が根本的に間違っています。

二河白道の譬喩については、

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは7
宿善とは8

に解説がありますので、詳しくはそちらを御覧下さい。
二河白道の譬喩は、信心守護の譬喩ですから信後のことを表すために作られた話です。
三定死は、こちらの岸にいる時のことで、白道に一歩足を踏み出した時が、獲信です。白道は聞法心ではなく、信後の他力信心です。

このように「高森会長の説明とは大きなずれがあります。

このように言いますと、喩えにはある程度の自由度があってもいい、と思考停止の会員は反論してきますが、意味がまるで違ってきてしまうから、大問題なのです。

高森会長は、白道を聞法心、信仰の道程としていますので、水の河と火の河の煩悩と戦うのが求道であり、聴聞だと教えますが、その考えが全くおかしいのです。煩悩と戦うのは、聖道門の考え方です。親鸞聖人の教えに、煩悩と戦って求道する、聴聞する、ということはありません。

そのことを最も端的に表現されたのが存覚上人の『持名鈔』です。

されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。

聖道門では、「家をもすて欲をもすてて修行すべき」と教えられるのですが、真宗では「世をもそむかず名利にもまつはれながら」、世の中の倣いにしたがって名利に執着しながら、「無上の仏法をきをききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」ができるのです。煩悩と戦ってというのではなく、煩悩にまみれたまま聴聞するのです。だからといって、悪をしていいということではないです。

『持名鈔』といえば、『教学聖典』の問答

(問)
 「後生の一大事は、どんな犠牲を払っても解決せね
 ばならぬものである」と教えられた、存覚上人の
 お言葉と、その根拠を示せ。

(答)
 ○仏法の為には身命をも捨て、財宝をも惜しむ
  べからず。
                        (持名鈔)

が典型的な断章取義であることを、過去に述べています。

典型的な断章取義教学
恩徳讃の気持ちのない悪知識

命をかけて求道せよ、財産を親鸞会にすべて捧げよ、という教えにすり替えていますが、全くのデタラメであり、捏造ともいえる程の断章取義です。

これも、二河白道の譬喩と同じ目的で、教えが歪められています。

真剣な聴聞を勧めることで留めておけばいいものを、命がけの法施と財施を、一切衆生必堕無間とセットで強要します。更には、善知識への無条件服従を加えて、カルト教義となります。

このように高森会長が教えを歪めるのは、会員に信心獲得させたい慈悲ではありません。会長がお金を獲得する欲望のみです。

もし嘘だと思うのならば、超豪華で不相応な会長施設の数々を見てみれば判ります。実物は秘密にしてありますが、図面と概要は「さよなら親鸞会」に載っていますし、当ブログでも紹介しました。

三つの髻をそりすてずは、法師といひがたし
財施は獲信のためではなかったと、高森会長は身をもって教えてくれています
高森会長が雑行を勧める理由

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り9

宿善といえば、『本願寺なぜ答えぬ』に宿善のすべてが説明されていると講師部員も幹部会員も、堅く信じています。実際にそのように講師部員が言っています。

『本願寺なぜ答えぬ』には、

 ではなぜ、信前の人に、自力一杯の聴聞や、破邪顕正、布施行などの諸善を勧めるのか。
 机上の空論や、合点なら易しい。仏教は、行学である。
自力は捨てもの、間に合わぬものと、合点するのはたやすいが、実地の体験は、難中之難、無過斯だから、浄土は、易往而無人なのだ。
 後生の一大事の解決には、自力は間に合うか、合わぬか、実際、全力を尽くして、初めて、出きることか、出来ないことか、可能か不可能か、ハッキリ知らされるのだ。
 喩えて言えば、クラスで力自慢の、小学一年の男子を連れて、母親が瀬戸物店へ、買い物に行った。
 大バーゲンで、たんまり仕込んだ母親が、重そうに、荷物を持って店を出た。
瀬戸物は、量の割に、重いものだ。
 それを見て、子供が、
「お母さん、僕、それ持ってあげる。僕、力強いんだよ、昨日もクラスの相撲で、一番だった」
と、自分の力を、誇示する。
 とてもとても、子供の力に合うような、品物でないことは、母親は、百も千も承知している。
「こんな重いものが、あんたなんかに、持てますか、落としたら、どうするの」
頭から、叱りつける母親は、余り、利口な親とは、言われぬ。
「そうお、坊や、そんなに強くなったの、お母さん、嬉しいわ、それじゃあ持ってくれる」
利口な母親は、持てないことを充分承知の上で、一度持たせてみせるのだ。
 落としたら大変だから、母親は、密かに、下に手を廻している。
 子供は、誉められて持ったのだから、男の意地だ、何とか持とうと渾身の力で、力んではみるが、とてもかなわぬ重荷を知らされ、力尽きて、
「お母さん、やっぱり、僕の力じゃ、駄目だ、早くとって!!落とすよ、早く、早く」
と、母親に任せる。
 子供は、母親が、荷物を下から支えていることを知らないから、驚いて、心から素直に、母親に、任せるのだ。

この話は、高森会長の法話でも昔は度々ありました。もちろんこの子供の喩えも、大沼法竜師の作ったもので、高森会長が考えたものではありません。

『顕真』平成23年1月号に、

十九願建立の弥陀の目的

善を励むほど、悪性が見えて来る。
励む善そのものは
「雑毒の善」でもなければ
「虚仮の行」でもないのだが、
励む我々の心が邪見であり、
虚仮であり、不実だから、
「真実の行」とならないのである。
励んでそれを分からせ、
他力の名号に向かわせようと、
弥陀が仕組まれたのが
十九願建立の願意である。

とあるのも、同様のことを言わんとしたものです。

この喩えは、クラスで力自慢の男子相撲で一番になった子供の話です。力に自信のない子供の話ではありません。高森会長は、この力自慢の男子を全ての人という意味で使っていますが、最初から矛盾しています。
仏になるには、真実の善をすればいいと聞いて、それならば自分にできそうだ、と思った人には、聖道門が勧められているのです。聖道門までは無理だと思う人には、19願が勧められるのです。

真実の善は自分にはできないと思っている人が、親鸞聖人の教えを聞くのです。

真実の善ができると自惚れている人は、親鸞聖人の教えを聞こうとはしません。

真実の善ができると自惚れている人は聖道門を信じるか、19願での往生を願うでしょう。

真実の善ができないと思っているから親鸞聖人の教えを聞いて、18願での往生を願うのです。
それは瀬戸物が持てるとは全く思っていない子供と同じです。クラスでは力の弱い子供、相撲でも簡単に負けてしまう子供、つまりこれだけの善ができなければ仏になれない、往生できない、と聞かされても、それは自分にはとても無理だと思う人に、

お前は腹底では瀬戸物が持てると自惚れているんだ、自分の力で成仏、往生できると自惚れているのだ

と無理やり瀬戸物を持たせ、善を強要すればどうなるか。大抵は潰れてしまうでしょう。瀬戸物を持てるなどと全く思っていない、持つことを嫌がる子供に瀬戸物を無理やり持たせようとするのを虐待といいます。しかしその親はいうでしょう、

虐待ではなく躾だ

と。高森会長は、子供を虐待する親と同じ思考です。

聖道門で成仏を目指す、あるいは聖道門は無理でも19願での往生を目指す、という人には、瀬戸物を持たせるという権仮方便が必要になることはあります。
しかし、18願での往生を願っている人に、無理やり、

お前は真実の善ができると自惚れているんだから、命懸けの財施、法施をせよ、命懸けでやらなかったら必堕無間だぞ

と脅して強要するのは虐待そのものであり、方便ではありません。この親鸞会の虐待によって、多くの人が精神も肉体も病んで、そのために亡くなった人もあれば、未だにPTSDで苦しんでいる人も相当の数にのぼります。
一方で、未だに会員として残っている人は、親から虐待されても親から離れられない子供と同じです。

一刻も早く、虐待されている子供達を救いたいと思っています。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り10

次から次へと訳の判らない財施が要求され、行事の誘いの目標を課せられ、熱心な会員でも不満を持っていると聞きます。
それが当然の思いでしょう。

雑行が出てこなければ、雑行は捨てられない

と、高森会長は、詭弁の珍説を未だに述べています。
高森会長の理論はこうです。

  • タバコを吸わせて体に悪いことを知らせてからでなければ、タバコをやめさせることはできない。
  • 麻薬や覚醒剤をやらせて、心身ともにボロボロになってからでなければ、麻薬や覚醒剤をやめさせることはできない。
  • 自殺をさせてみてからでなければ、自殺を止めることはできない。

通常の思考なら、タバコを吸っている人も吸わない人も、麻薬や覚醒剤をやっている人もやっていない人も、自殺を試みた人も考えていない人も、共通にやめましょう、と呼びかけて、それがおかしいと思う人はいません。タバコ、麻薬、覚醒剤で体を壊してからでは手遅れですし、自殺してしまった人に自殺をするなと教える人はいません。当たり前のことです。

親鸞聖人、蓮如上人は、雑行をしている人もしていない人にも、雑行では往生できないから捨てよとしか教えられていないのです。一度雑行をさせてみて、などと愚かなことを仰る筈がありません。高森会長は、伊藤康善師、大沼法竜師、香樹院師以外の真宗関係の本を読んだことがありませんので、親鸞聖人、蓮如上人がどのように教えられているかを知らないだけのことです。もし知っていたら、恥ずかしくてこんな珍説を唱えることを躊躇するでしょう。

30年前の本願寺との法論の際、本願寺から、「親鸞聖人が獲信のために善を勧められた文証を出せ」といわれて、高森会長が七仏通戒偈や『観無量寿経』を示すという邪道振りに、本願寺は呆れました。それは、聖道門が法然上人を非難した内容そのままであるからです。

これまで何度かそれについては述べてきました。

「汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎」との明恵高弁の言葉を知っていますか?
会員との問答(聖道門と浄土門の違い)

しかし、このように説明する以外に、会員に善という建前で、金集め、人集めをさせる理由が無くなってしまいますので、外部からの批判を聞かないようにしているのでしょう。

前回の子供と瀬戸物の喩え話は、聖道門の人のことですが、それを親鸞会の会員に適用するとどうなるか。

力の弱い子供は言うでしょう。
「お母さんは、僕にはこのお皿1枚も持てないと言ってたじゃないの。こんなたくさんの皿なんか持てないよ。」
しかし、母親は言います。
「嘘を言ってはいけないよ。坊やは、これだけの皿くらい持てると本当は思っているのでしょう。一回持ってみなさい、そうすれば持てないことが判るから。」
子供は嫌がります。
「嫌だよ、持てないことくらい判ってるよ。僕、疲れてるから歩きたくもないんだよ。」
母親は子供に厳しく叱りつけます。
「そんなに甘えているなら、御飯もおやつも、これからは無しよ。持ちなさい。」
子供は泣きながら
「そんなの嫌だよ。じゃあ、お皿1枚だけ持つよ。」
子供に皿1枚を持たせて、
「まだ持てるでしょ。はいこれも。」
皿をもう1枚子供に持たせます。
「もう無理。許してよ、お母さん。」
お母さんは益々厳しく
「じゃあ、御飯もおやつも要らないのね。まだこんなにお皿が残ってるじゃないの。このお皿を落としたら、飲み物もおもちゃも無しよ。」

これが高森会長と会員とのやりとりです。

最近高森会長は、真実の善と雑毒の善について詳しく説明しているといいます。

真実の善はできないが、雑毒の善はできる。雑毒の善でもしなければ、良い結果は返ってこない

と。

会員は、真実の善ができないと判っています。判っていなければ、親鸞会の話など聞く訳がないです。雑毒の善ができるのだから雑毒の善をせよ、と言ったところで、往生・獲信となんの関係があると言うのでしょうか。関係を言えないから、

善をしなければ良い結果が返ってこない、真宗が衰退しているのは善を勧めないからだ

と的外れの説明しかできないのでしょう。
高森会長は根拠を出せません。ないからです。

なお、雑毒の善が宿善になるのであれば、善は間違いなくできるのです。雑毒の善ができるのなら、無善ではありません。善導大師が仰るように、「善根薄少」です。真実の善ができないことと必堕無間は、意味が違います。龍樹菩薩は、真実の善はできませんでしたが初地まで到達せられて六道を自力で出離されています。

高森会長が前回の2000畳座談会で

阿弥陀仏が無量光明土に生まれる足しにならない善を19願で勧めておられるのか?

という自問に対して

それは弥陀のお計らいだ
わからないから納得出来るように説明せよという人は弥陀より偉い人で、弥陀に救われる必要のない人だ

と思考停止を会員に要求しています。
このような聖道門的質問に対して、親鸞聖人は詳しく答えておられますが、聖教を読んだことのない高森会長は、愚問愚答をして会員を騙せたと得意気なのでしょう。退会者から見れば喜劇ですが、会員にとっては悲劇です。

さて、この子供はこの後、どういった選択肢があるでしょうか。

A.皿を放り投げて反抗し、母親に捨てられる。
B.適当なことを言って皿を母親に返し、その隙に自ら走り去る。
C.皿を持てば、いつか空から飴が降ってくることを期待して、泣きながら母親に従う。

虐待する母親に対して、子供はどれを選択するのがよいと思われますか。子供を虐待する母親しか知らなければ、しかないのでしょうが、普通の母親を知り、自分を保護してくれる優しい人がいることを知っているのなら、を選択して欲しいと思います。すでに多くの子供が、の方法で、この母親から逃れて、保護されています。

願わくば、虐待の母親の元を離れて、阿弥陀仏という間違いのない保護者の元に行って下さい。

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