『顕真』2月号でも、「宿善と聴聞と善のすすめ」がまだ続いていますが、その内容は、弥陀の救いに値うまでの”方便”の必要性を必死に訴えているだけです。
この幼稚な理論の間違いは、これまでに述べてきた通りです。一言で言えば、善巧方便と権仮方便の違いが全く判っていないだけのお粗末さです。最近も以下のところで詳細に説明してきました。
「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の曲解
王舎城の悲劇が善巧方便
善巧方便がまだ判らない人のための補足説明
みのもんたが人気あるのは、断言するからだ。君たちも断言していくようにしなさい!
『歎異抄をひらく』の自己矛盾
『歎異抄をひらく』には、高森会長の本心が著わされています
”方便より真実に入れ”の正しい意味
方便については繰り返しませんが、今回もおもしろい内容がありましたので紹介しておきます。”餓鬼が寒林で骸を打つ”の話です。
釈迦が林を遊歩中、餓鬼が泣きながら骸をたたいている。
訳を聞かれると、
「人間界におった時、なぜ真剣に仏法を聞いてくれなかったかと、前生の頭の骨をたたいているのです」
と答えたと『仏説譬喩経』に説かれる。
臨終に号泣しても間に合わない。死んで骸を打っても時すでに遅しである。
以前に『仏説譬喩経』の全文を紹介しましたので、読まれれば判るように、『仏説譬喩経』にはこの話はもちろんありません。似た話は、『涅槃経』にあります。原文は難しいので、Wikipediaにあるものを引用しておきます。
善星は、十二部経を受持読誦し四禅定を獲得したが、悪友である苦得外道(くとくげどう)に親近したために、四禅定を失い邪見を起し「仏無常なり、法も無常なり、涅槃もまた無常なり。衆生の煩悩と解脱には因果の理法はない」などと、仏の教えを否定するようになった。苦得外道はジャイナ教(六師外道の一、尼乾子=にけんし等ともいう)の教徒である。善星比丘はこの苦得に近親した。
善星は「苦得こそ真の阿羅漢」と言うと、仏は「苦得は阿羅漢に非ず」といった。善星は「世尊は証悟しているのに苦得に嫉妬するのですか」、仏「苦得が羅漢でない証拠に、彼は7日後に命終し、食吐鬼(じきとき、餓鬼の一種)になり同学の者がその屍を寒林に運んで置くだろう」と予言した。善星はこれを聞いて苦得にこの件を告げ食事に注意するように促した。これを聞いた苦得は断食して6日経ち、7日目に安心して黒蜜を食べて冷水を飲むと、腹痛を起こして命終した。そして同学の者が苦得の屍を寒林に運んで置いた。善星は苦得が死んだのを聞いて寒林に行くと、苦得は食吐鬼となり身を低くしうずくまって屍の側にいた。善星は苦得に事の顛末を聞くと、苦得は「釈迦仏の言ったのは本当である。善星よ、お前はなぜ仏の言を聞けないのか。もし信じなかったら私と同じようになるだろう」と言った。しかし善星は仏所に赴き「苦得は命終して三十三天に転生した」といった。仏は「悟りを得た羅漢が六道の天界に輪廻することはない、なぜ嘘をつくのか」と叱責すると、彼は「苦得は三十三天に生ぜず、食吐鬼となりました」と認めた。しかし善星はなおも「世尊の言はすべて不信である」と言い張った。
釈迦仏は、大衆に向かってこの話を教下し「我は善星が為に真実の法を説くも、彼は信受する心なし。彼は十二部経を読誦し四禅を得るも、悪友に親近して四禅を失い邪見を生じた。汝らがもし如来の真実語を不信するなら、彼は尼連禅河(にれんぜんが、ナイランジャナー河)にいるから、共に行って見るがよい」と言った。釈尊は迦葉菩薩らと共に赴いた。すると善星は釈尊を見つけると悪心を生じて、生身のまま阿鼻地獄に堕したという。
闡提の善星に対して、餓鬼界に堕ちた苦得が言ったことであり、『顕真』の内容とはずれています。
なおこの話は、日蓮宗系団体でよく使われるものです。これ以上は言わなくても、皆さんお判りになられると思います。
この話を通して、死んで必ず無間地獄に堕ちるのではないことが判ります。親鸞会は自分で一切衆生必堕無間を否定しているのです。
参考までに善星については、『教行信証』真仏土巻にも闡提の者として『涅槃経』を引かれています。
迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、如来は知諸根力を具足して、さだめて善星まさに善根を断ずべしと知ろしめさん。なんの因縁をもつてその出家を聴したまふ〉と。仏ののたまはく、〈善男子、われ往昔の初において出家のとき、わが弟難陀、従弟阿難・提婆達多、子羅睺羅、かくのごときらの輩、みなことごとくわれに随ひて家を出で道を修しき。われもし善星が出家を聴さずは、その人次にまさに王位を紹ぐことを得べし。その力自在にして、まさに仏法を壊すべし。この因縁をもつて、われすなはちその出家修道を聴す。善男子、善星比丘もし出家せずは、また善根を断ぜん。無量世においてすべて利益なけん。いま出家しをはりて善根を断ずといへども、よく戒を受持して、耆旧・長宿・有徳の人を供養し恭敬せん。初禅乃至四禅を修習せん。これを善因と名づく。かくのごときの善因、よく善法を生む。善法すでに生ぜば、よく道を修習せん。すでに道を修習せば、まさに阿耨多羅三藐三菩提を得べし。このゆゑにわれ善星が出家を聴せり。善男子、もしわれ善星比丘が出家を聴し戒を受けしめずは、すなはちわれを称して如来具足十力とすることを得ざらんと。
(現代語訳)
迦葉菩薩が釈尊に、<世尊、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられるのですから、善星比丘が善い資質を失うだろうと、きっと知っておられたはずです。どのようなわけで、善星比丘の出家をお許しになったのですか>と申しあげる。
釈尊が仰せになる。<善良なものよ、昔わたしが出家したばかりのころ、弟の難陀、従弟の阿難と提婆達多、息子の羅睺羅などが、みなことごとくわたしにしたがって出家して仏道を修めることになった。わたしがもし善星の出家を許さなかったなら、善星は一族のものとして次に王位を継ぐことになったであろう。そうなれば、思いのままにその力を使って、仏法を破壊したであろう。このようなわけで、わたしは、出家して仏道を修めることを許したのである。善良なものよ、善星比丘は、出家しなかったとしても、やはり善い資質を失ったであろう。そうすれば、はかり知れない長い間何の利益もないことになる。すでに出家し、後に善い資質を失ったが、戒律をたもち、長老や先輩や有徳の人を供養し敬い、さまざまな段階の禅定を修めるということは、善の因となる。このような善の因は善を生じる。善が生じたなら仏道を修めるであろう。仏道を修めたなら、ついにはこの上ないさとりを得るであろう。だから、わたしは善星の出家を許したのである。善良なものよ、もしわたしが、善星比丘が出家して戒律を受けることを許さなかったなら、わたしのことを、十力をそなえた如来と称することはできないであろう。>
闡提(断善根)の善星を通して、すべての人が闡提でないこともこれでお判り頂けると思います。
高森会長は、自分を大学者と見せようと、いろいろの話を”引用”していますが、悉く間違っています。それにしても、高森会長オリジナルの話と宣言すれば盗作と指摘され、引用と公言すれば根拠も内容も間違っていると非難され、どうしようもない善知識です。
ここまで嘘で固められた親鸞会を批判する者に、法的圧力をかけることに尽力している特専部の弁護士達は、批判者の主張を知っているのですから、通常なら辛い立場だと思います。もし辛くないのなら、講師部員並の知能ですね。