前回、雑毒の善ができれば善人であり、下品下生ではない、と述べましたが、先日の座談会で、
十方衆生=逆謗の屍
をやたら強調したそうです。このことは
「安心問答」
会長「十方衆生は逆謗だから、逆謗でない者は本願に漏れている」→参詣者「??」(7月28日テレビ座散会より)
にありましたが、聖教上の根拠も無いのに、「意地でも自説を曲げてなるものか、ワシの言うことに間違いはない、疑わずに信じよ」、という高森会長の心の叫びです。高森会長の根拠は、大沼師の味わいだけです。
聖教を読んだことの無い高森会長は、基本的な善の意味さえも理解できないようです。
その1つの証拠が『顕真』平成23年7月号の3番目の疑難と答えです。
疑難と答え 6
宿善とは過去を喜ぶもの(疑難)
「宿善とは、宿世(過去世)の善根という意味であり、振り返って喜ぶ過去の善だから、”宿善を求める”などと未来に向って言うべきことではない。今からやる善とは無関係だ」(答え)
要するに「過去をあらわす言葉を未来に使うのが間違い。過去の善根と未来の善根とは無関係」というのである。果たして、そう言えるだろうか。
「想い出をつくろう」というのは間違いだろうか。「想い出」は過去をあらわす言葉であり、「つくろう」は未来のことだからである。
「悔いを残さぬように」というもの間違いだろうか。「悔い」は過去をあらわす言葉であり、「残さぬように」は未来のことであるからだ。「宿善」は過去をあらわす言葉であり、「求める」は未来のことである。
「宿善を求める」だけが、なぜ間違いと言えるのだろうか。悪いはずがなかろう。
ここで自己矛盾に陥っています。
善のできない逆謗の屍が、過去世に善根を修してきたということですか?
親鸞会の主張である『唯信鈔』の「宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。」によれば、今生に逆謗の悪業をこのみ善根を造っていない十方衆生が、過去世に善を修してきたというのですか?
また過去世でも、善のできない逆謗の屍であったのですから、過去世においても善を修していない筈ですが、違いますか?
要するに、過去も現在も未来も無善で五逆罪・謗法罪ばかりを造っている者が、いつどこでどのようにして善を修するというのでしょうか?
自分の言っていることが判っていますか、高森会長。
無善というのは、真実の善ができないということで、雑毒の善は善に入らない
とでも寝恍けたことをいいますか、高森会長。
散善について高森会長は、「心が散り乱れたままでもよいから善をしなさい」と説明していますが、心が散り乱れたまま行う善が真実の善とでも考えているのでしょうか?
心が散り乱れたままで行う雑毒の善さえもできないものが、下品三生と何度も何度も説明してきましたが、まだ判らないのですか?
どこを突いても矛盾しかありません。
宿善を宿世の善根と通仏教では説明しますが、真宗では宿善を阿弥陀仏のお育てと説明します。そのことは
にも書かれていますし、『往生要集』『口伝鈔』を挙げて最近も述べたのもこのことです。
高森会長は言葉を曖昧に使って誤魔化しているだけで、少し問い詰めればすぐにボロが出ます。
真実の善は仏しかできません、真実の善でなければ報土には往けません。それで阿弥陀仏が十方衆生に成り代わられて、真実の善をなされてその功徳を十方衆生に回向して下されたのです。報土往生の因は、阿弥陀仏が真実の善によって用意なされていますので、衆生の側で雑毒の善をする必要が全くないのです。阿弥陀仏の真実の善だけでは不足だと思って雑毒の善をしようとするのを、「仏智疑惑」と言われるのです。
蓮如上人は『御文章』2帖目第9通に、
さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。
と教えられている通りです。
阿弥陀仏が真実の善の功徳を十方衆生に回向して下されていますので、十方衆生は報土往生のために善をする必要がなぜあるのでしょうか?
「宿善を求める」だの「19願を必ず通らなければならない」だのと言っているのを、親鸞聖人は『正像末和讃』誡疑讃で
罪福信ずる行者は
仏智の不思議をうたがひて
疑城胎宮にとどまれば
三宝にはなれたてまつる仏智疑惑のつみにより
懈慢辺地にとまるなり
疑惑のつみのふかきゆゑ
年歳劫数をふるととく自力諸善のひとはみな
仏智の不思議をうたがへば
自業自得の道理にて
七宝の獄にぞいりにける
と、厳しく誡めておられるのです。
因果の道理を有の見で理解し説明している高森会長以下講師部員には、回向という概念は全く理解できないでしょう。
ましてや十方衆生の定相が、逆謗の屍と未だに言っている有の見の外道には、今回のエントリーもチンプンカンプンで、また的外れな内輪向けの反論をこそこそとするしかないでしょうね。
でも、それが外部に漏れてしまうから、また大恥をかくことになるのですよ、高森会長。恥をこれ以上かきたくなければ、教団名を高森教と改名することをお勧めします。