2013年01月25日

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り6

宿善について語る時に、避けて通れないのが『観無量寿経』の下品下生です。
高森会長は『観無量寿経』を読んだことがないから、下品下生とはどんなことかもよく知りません。

善導大師は『玄義分』

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

下品下生とは、
これらの衆生は、善くない業おこないである五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。
とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

と解説しておられますように、必ず地獄に堕ちて長い間、窮まりのない苦しみを受ける五逆・十悪を造った者が、臨終に善知識から念仏を勧められて、その勧めに従って念仏によって往生できたのです。
平生に善をせず、しかも仏法を平生に聞いていない者が、臨終の念仏で救われるとは、因果の道理から言えば、考えにくいことです。
親鸞会の理論からいえば、あり得ない話です。

そこで、天台大師が著したとされる『浄土十疑論』では、過去世に善根を積んできた宿善業の強い人であったから、善知識に遇えて往生したのだ、と解釈したのです。

この『浄土十疑論』の影響をうけて、宿善について語られるようになりました。

『唯信鈔』には、

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生す ることを得んや」と。

という問いから、宿善について述べられています。

これに対する回答が、

これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

です。
因果の道理かいらいえば、親鸞会の『教学聖典』にもある

宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。

となります。
ところが、この理屈で言えば「五逆の罪人」は「宿善すくなきもの」となりますが、その「宿善すくなき」の「五逆の罪人」でさえも臨終の十回の念仏で往生できる宿善があったのですから、「五逆をばつくらず」の念仏者が、一生涯念仏していることを、「宿善あさしとおもふべきや」なのです。
つまり、平生に仏法を聞いていない宿善の少ない五逆罪を造った人でさえ、往生できるのだから、平生から念仏の教えを聞いていて、五逆罪を造っていない皆さんには宿善がもちろんあり、五逆罪の人よりもなお往生できるといえるのです。

親鸞会の宿善論は、『唯信鈔』からいっても、完全に破綻しています。

『唯信鈔』を承けられて、覚如上人は『口伝鈔』

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

とあります。因果の道理に基づけば、「宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。」となります。しかし覚如上人は、過去世に行なってきた善悪と、往生とを関係付けてはいけない、と仰っているのです。やはり、親鸞会の宿善論を完全否定されています。

往生の大益をば如来の他力にまかせ」るのが、真宗の教えです。「かつて機のよきあしきに目をかけて」いるのが親鸞会です。

はっきりいいまして、高森会長は阿弥陀仏の本願が何も判っていないのです。

延暦寺第二探題であった禅瑜でさえ、『浄土十疑論』注釈書である『阿弥陀新十疑』を著して

未断惑の凡夫も、念仏の力によりて、往生することを得るなり。

十悪五逆を造るの人も、臨終の時、心念あたわずと雖も、口に南無阿弥陀仏と称するによりて、往生することを得るなり。

と解説しています。聖道門でも、「念仏の力」つまり阿弥陀仏のお力で、五逆の者も往生させることができると教えているのです。それが宿善の薄いものは宿善を厚くしなければ阿弥陀仏は往生させてくれない、とトンデモ珍説を唱えている親鸞会は何でしょうか。これを仏智疑惑といわれて、その罪の深さを親鸞聖人は、厳しく誡めておられます。

阿弥陀仏の本願に対する高森会長の理解は、お粗末を通り越して、滑稽です。
高森会長の話を聞くくらいなら、天台浄土教を聞いていた方が、どれだけましか、という話です。

昿劫多生の目的と言われて喜んでいる親鸞会の会員も、実に哀れです。平生に善などしたこともない、仏法をきいたこともない親殺しの者が、臨終になって始めて仏法を聞いて、十回の念仏で救われるのが阿弥陀仏の救いです。

『観無量寿経』を全く知らない高森会長から、救われない教えを昿劫多生の間聞いても、何兆円財施をしても、救われません。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り7

高森会長は『観無量寿経』を読んだことがないけれど、真実の教である『大無量寿経』は流石に読んでいるだろうと思われる方があるかもしれません。

ならば、最低限『大無量寿経』の三輩については知っている筈ですが、実際はどうでしょうか。

『選択本願念仏集』に、

『観経』の九品と『寿経』(大経)の三輩と、本これ開合の異なり。

とありますように、『観無量寿経』の九品を合すれば『大無量寿経』の三輩になり、『大無量寿経』の三輩を開けば『観無量寿経』の九品になるということですので、九品と三輩は同じことです。

では、『大無量寿経』三輩段の下輩を見てみますと、

それ下輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと欲することありて、たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども、まさに無上菩提の心を発して一向に意をもつぱらにして、乃至十念、無量寿仏を念じたてまつりて、その国に生れんと願ずべし。もし深法を聞きて歓喜信楽し、疑惑を生ぜずして、乃至一念、かの仏を念じたてまつりて、至誠心をもつてその国に生れんと願ぜん。この人、終りに臨んで、夢のごとくにかの仏を見たてまつりて、また往生を得。功徳・智慧は、次いで中輩のもののごとくならん

(現代語訳)

次に下輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、たとえさまざまな功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起こし、ひたすら心を一つにしてわずか十回ほどでも無量寿仏を念じて、その国に生れたいと願うのである。もし奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、疑いの心を起さず、わずか一回でも無量寿仏を念じ、まことの心を持ってその国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、このものは夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、その国に往生することができ、中輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである

と釈尊は仰っています。「たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども」と下輩にとっては、善と往生とは関係のないことを釈尊は仰っています。

参考までに上輩は

それ上輩といふは、家を捨て欲を棄てて沙門となり、菩提心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修してかの国に生れんと願ぜん。これらの衆生、寿終らんときに臨んで、無量寿仏は、もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはちかの仏に随ひてその国に往生す。すなはち七宝の華のなかより自然に化生して不退転に住せん。智慧勇猛にして神通自在ならん。このゆゑに阿難、それ衆生ありて今世において無量寿仏を見たてまつらんと欲はば、無上菩提の心を発し功徳を修行してかの国に生れんと願ずべし

(現代語訳)

上輩のものについていうと、家を捨て欲を離れて修行者となり、さとりを求める心を起して、ただひたすら無量寿仏を念じ、さまざまな功徳を積んで、その国に生れたいと願うのである。このものたちが命を終えようとするとき、無量寿仏は多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださる。そして無量寿仏にしたがってその国に往生すると、七つの宝でできた蓮の花におのずから生れて不退転の位に至り、智慧がたいへんすぐれ、自由自在な神通力を持つ身となるのである。だから阿難よ、この世で無量寿仏を見たてまつりたいと思うものは、この上ないさとりを求める心を起し、功徳を積んでその仏の国に生れたいと願うがよい

とあり、上輩は「家を捨て欲を棄てて沙門となり、(中略)もろもろの功徳を修して」です。在家の人のことではありません。高森会長と講師部員はここに属していそうな感じもありますが、マイホームを持ち、家庭を持ち、欲にまみれていますからここには入らないでしょう。もちろん功徳を修してもいません。

また中輩は、

それ中輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと願ずることありて、行じて沙門となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、まさに無上菩提の心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念ずべし。多少、善を修して斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け灯を燃し、華を散じ香を焼きて、これをもつて回向してかの国に生れんと願ぜん。その人、終りに臨みて、無量寿仏はその身を化現したまふ。光明・相好はつぶさに真仏のごとし。もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはち化仏に随ひてその国に往生して不退転に住せん。功徳・智慧は、次いで上輩のもののごとくならん

(現代語訳)

次に中輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、上輩のもののように修行者となって大いに功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起し、ただひたすら無量寿仏を念じるのである。そして善い行いをし、八斎戒を守り、堂や塔をたて、仏像をつくり、修行者に食べものを供養し、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をして、それらの功徳をもってその国に生れたいと願うのである。このものが命を終えようとするとき、無量寿仏は化身のお姿を現してくださる。その身は光明もお姿もすべて報身そのままであり、多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださるのである。そこでその化身の仏にしたがってその国に往生し、不退転の位に至り、上輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである

と教えられています。
行じて沙門となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、(中略)多少、善を修して斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け灯を燃し、華を散じ香を焼きて」ですが、親鸞会で勧めていることは、形式上はこれに当たるように見えます。
斎戒」とは、八戒斎のことで、本願寺出版社『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』の註には

八つの戒と一つの斎で八戒斎という。また八斎戒ともいい、略して八戒ともいう。在家の信者が一日一夜の期限を限って、出家者と同様に身心の行為動作を慎しむこと。五戒と衣・住・食の贅沢についての戒め。

①不殺生戒。
②不偸盗戒。
③不婬戒。
④不妄語戒。
⑤不飲酒戒。
⑥不香油塗身戒。身体に香油を塗ったりして化粧しない。
⑦不歌舞観聴戒。歌をうたったり舞をまったりしないと同時にそれを観てもいけない。
⑧不高広大床戒。高くゆったりとしたベッドに寝ない。
⑨不非時食戒。昼以後、何も食べない。以上の九のうち、
⑨不非時食戒を斎とするが、他にも諸説がある。

とありまして、親鸞会ではこれは全くできていません。それどころか高森会長、講師部員が積極的にこれらを破っています。
しかし次の「塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け」は会員に対して大いに勧められています。次から次へと会館の建設費を募り、高森会長と講師部員に法礼・報謝と称して貢がせ、会館の装飾品購入費の献金を強要しているのですから、親鸞会では中輩での往生を説いているようにみえます。

ところが、親鸞会では、全人類は下輩、『観無量寿経』でいえば下品下生といっているのですから、根本的に理論がおかしいのです。全人類が下輩ならば、中輩にある善を勧めては、三輩の区別がついていないことになります。釈尊は何のために三輩を分けられたのかまるっきり理解できていないのです。中輩は、出家はしていませんが、善ができるから善を勧められているのです。下輩は、「たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども」ですから、善ができない人のことで、善のできない下輩に対して釈尊は善を勧められていません。実に単純なことですが、これさえ知らないのです。

僅かでも論理的な思考がある人ならば、次のように理解するはずです。

出家してレベルの高い善のできる人には、レベルの高い善を勧められていますが、もちろん必堕無間ではありません。
出家まではできませんが少し善のできる人にもそれ相応の善を勧められていますが、善のできる人はやはり必堕無間ではありません。
悪しかできない人には善を勧めてもできないのですから、善の勧めはありませんが、造っている悪の軽重に応じて、死後は六道、三悪道になり、無間業を造っているならば必堕無間になります。

高森会長理論は、釈尊を超えているのか、幼稚園児並なのか、どちらかでしょう。会員でも前者と思う人は、流石にいないと思いますが、もしいたら高森本仏論者でしょう。

高森会長は真実の教である『大無量寿経』も読んだことがないから、自分のいっていることがどれほど頓珍漢なことなのかも判らず、恥ずかしいとも思っていないのでしょう。
親鸞聖人の教えを真面目に学んだ人ならば、この理論に呆れ果てています。実際、本願寺は親鸞会を新興宗教と見做して、無視しています。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り8

教えを捻じ曲げても平気なのは、自己の名利のことしか考えていないからです。金集め、人集めが、往生と何の関係もないことは、少しでも聖教を読んでみれば判る話です。

高森会長が35周年記念大会で三願転入を言い始めるまでは、宿善のことを強調していましたが、共に目的は同じです。

さて、『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤りについて、もう少し述べてみたいと思います。

親鸞会の本意である”善のすすめ”を隠すために、『顕真』平成22年12月号と平成23年1月号は”聴聞のすすめ”に徹しています。”善のすすめ”を言わなければ、おかしいことを言っていても、それほど非難される事はないと思っているのでしょう。
それでも問題はいくつもありますが、大きな問題だけを取り上げておきます。

善導大師は、「ユルサレテキク」(聴)から、
弥陀の勅命を「シンジテキク」(聞)までの心
(信仰)の道程を、「二河白道の譬喩」でこう
開顕されている。

(中略)

「白道」は、聞法心(弥陀の救いを求める心)
を喩えたものだが、求める心があっても微弱だ
から四五寸の細い道と、説く。
「群賊」や「悪獣」とは、聞法心を妨げるすべ
てのものを表す。

(中略)

これは十方衆生が弥陀に救われるまでの信仰
(心)の道程を、巧みに教えられた善導大師の
有名な警えである。

如何でしょうか。高森会長の話しか聞いた事がない人は、どこが問題なのかと思われるかも知れませんが、二河白道の譬喩が根本的に間違っています。

二河白道の譬喩については、

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは7
宿善とは8

に解説がありますので、詳しくはそちらを御覧下さい。
二河白道の譬喩は、信心守護の譬喩ですから信後のことを表すために作られた話です。
三定死は、こちらの岸にいる時のことで、白道に一歩足を踏み出した時が、獲信です。白道は聞法心ではなく、信後の他力信心です。

このように「高森会長の説明とは大きなずれがあります。

このように言いますと、喩えにはある程度の自由度があってもいい、と思考停止の会員は反論してきますが、意味がまるで違ってきてしまうから、大問題なのです。

高森会長は、白道を聞法心、信仰の道程としていますので、水の河と火の河の煩悩と戦うのが求道であり、聴聞だと教えますが、その考えが全くおかしいのです。煩悩と戦うのは、聖道門の考え方です。親鸞聖人の教えに、煩悩と戦って求道する、聴聞する、ということはありません。

そのことを最も端的に表現されたのが存覚上人の『持名鈔』です。

されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。

聖道門では、「家をもすて欲をもすてて修行すべき」と教えられるのですが、真宗では「世をもそむかず名利にもまつはれながら」、世の中の倣いにしたがって名利に執着しながら、「無上の仏法をきをききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」ができるのです。煩悩と戦ってというのではなく、煩悩にまみれたまま聴聞するのです。だからといって、悪をしていいということではないです。

『持名鈔』といえば、『教学聖典』の問答

(問)
 「後生の一大事は、どんな犠牲を払っても解決せね
 ばならぬものである」と教えられた、存覚上人の
 お言葉と、その根拠を示せ。

(答)
 ○仏法の為には身命をも捨て、財宝をも惜しむ
  べからず。
                        (持名鈔)

が典型的な断章取義であることを、過去に述べています。

典型的な断章取義教学
恩徳讃の気持ちのない悪知識

命をかけて求道せよ、財産を親鸞会にすべて捧げよ、という教えにすり替えていますが、全くのデタラメであり、捏造ともいえる程の断章取義です。

これも、二河白道の譬喩と同じ目的で、教えが歪められています。

真剣な聴聞を勧めることで留めておけばいいものを、命がけの法施と財施を、一切衆生必堕無間とセットで強要します。更には、善知識への無条件服従を加えて、カルト教義となります。

このように高森会長が教えを歪めるのは、会員に信心獲得させたい慈悲ではありません。会長がお金を獲得する欲望のみです。

もし嘘だと思うのならば、超豪華で不相応な会長施設の数々を見てみれば判ります。実物は秘密にしてありますが、図面と概要は「さよなら親鸞会」に載っていますし、当ブログでも紹介しました。

三つの髻をそりすてずは、法師といひがたし
財施は獲信のためではなかったと、高森会長は身をもって教えてくれています
高森会長が雑行を勧める理由

posted by 鴻 at 05:13| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り9

宿善といえば、『本願寺なぜ答えぬ』に宿善のすべてが説明されていると講師部員も幹部会員も、堅く信じています。実際にそのように講師部員が言っています。

『本願寺なぜ答えぬ』には、

 ではなぜ、信前の人に、自力一杯の聴聞や、破邪顕正、布施行などの諸善を勧めるのか。
 机上の空論や、合点なら易しい。仏教は、行学である。
自力は捨てもの、間に合わぬものと、合点するのはたやすいが、実地の体験は、難中之難、無過斯だから、浄土は、易往而無人なのだ。
 後生の一大事の解決には、自力は間に合うか、合わぬか、実際、全力を尽くして、初めて、出きることか、出来ないことか、可能か不可能か、ハッキリ知らされるのだ。
 喩えて言えば、クラスで力自慢の、小学一年の男子を連れて、母親が瀬戸物店へ、買い物に行った。
 大バーゲンで、たんまり仕込んだ母親が、重そうに、荷物を持って店を出た。
瀬戸物は、量の割に、重いものだ。
 それを見て、子供が、
「お母さん、僕、それ持ってあげる。僕、力強いんだよ、昨日もクラスの相撲で、一番だった」
と、自分の力を、誇示する。
 とてもとても、子供の力に合うような、品物でないことは、母親は、百も千も承知している。
「こんな重いものが、あんたなんかに、持てますか、落としたら、どうするの」
頭から、叱りつける母親は、余り、利口な親とは、言われぬ。
「そうお、坊や、そんなに強くなったの、お母さん、嬉しいわ、それじゃあ持ってくれる」
利口な母親は、持てないことを充分承知の上で、一度持たせてみせるのだ。
 落としたら大変だから、母親は、密かに、下に手を廻している。
 子供は、誉められて持ったのだから、男の意地だ、何とか持とうと渾身の力で、力んではみるが、とてもかなわぬ重荷を知らされ、力尽きて、
「お母さん、やっぱり、僕の力じゃ、駄目だ、早くとって!!落とすよ、早く、早く」
と、母親に任せる。
 子供は、母親が、荷物を下から支えていることを知らないから、驚いて、心から素直に、母親に、任せるのだ。

この話は、高森会長の法話でも昔は度々ありました。もちろんこの子供の喩えも、大沼法竜師の作ったもので、高森会長が考えたものではありません。

『顕真』平成23年1月号に、

十九願建立の弥陀の目的

善を励むほど、悪性が見えて来る。
励む善そのものは
「雑毒の善」でもなければ
「虚仮の行」でもないのだが、
励む我々の心が邪見であり、
虚仮であり、不実だから、
「真実の行」とならないのである。
励んでそれを分からせ、
他力の名号に向かわせようと、
弥陀が仕組まれたのが
十九願建立の願意である。

とあるのも、同様のことを言わんとしたものです。

この喩えは、クラスで力自慢の男子相撲で一番になった子供の話です。力に自信のない子供の話ではありません。高森会長は、この力自慢の男子を全ての人という意味で使っていますが、最初から矛盾しています。
仏になるには、真実の善をすればいいと聞いて、それならば自分にできそうだ、と思った人には、聖道門が勧められているのです。聖道門までは無理だと思う人には、19願が勧められるのです。

真実の善は自分にはできないと思っている人が、親鸞聖人の教えを聞くのです。

真実の善ができると自惚れている人は、親鸞聖人の教えを聞こうとはしません。

真実の善ができると自惚れている人は聖道門を信じるか、19願での往生を願うでしょう。

真実の善ができないと思っているから親鸞聖人の教えを聞いて、18願での往生を願うのです。
それは瀬戸物が持てるとは全く思っていない子供と同じです。クラスでは力の弱い子供、相撲でも簡単に負けてしまう子供、つまりこれだけの善ができなければ仏になれない、往生できない、と聞かされても、それは自分にはとても無理だと思う人に、

お前は腹底では瀬戸物が持てると自惚れているんだ、自分の力で成仏、往生できると自惚れているのだ

と無理やり瀬戸物を持たせ、善を強要すればどうなるか。大抵は潰れてしまうでしょう。瀬戸物を持てるなどと全く思っていない、持つことを嫌がる子供に瀬戸物を無理やり持たせようとするのを虐待といいます。しかしその親はいうでしょう、

虐待ではなく躾だ

と。高森会長は、子供を虐待する親と同じ思考です。

聖道門で成仏を目指す、あるいは聖道門は無理でも19願での往生を目指す、という人には、瀬戸物を持たせるという権仮方便が必要になることはあります。
しかし、18願での往生を願っている人に、無理やり、

お前は真実の善ができると自惚れているんだから、命懸けの財施、法施をせよ、命懸けでやらなかったら必堕無間だぞ

と脅して強要するのは虐待そのものであり、方便ではありません。この親鸞会の虐待によって、多くの人が精神も肉体も病んで、そのために亡くなった人もあれば、未だにPTSDで苦しんでいる人も相当の数にのぼります。
一方で、未だに会員として残っている人は、親から虐待されても親から離れられない子供と同じです。

一刻も早く、虐待されている子供達を救いたいと思っています。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り10

次から次へと訳の判らない財施が要求され、行事の誘いの目標を課せられ、熱心な会員でも不満を持っていると聞きます。
それが当然の思いでしょう。

雑行が出てこなければ、雑行は捨てられない

と、高森会長は、詭弁の珍説を未だに述べています。
高森会長の理論はこうです。

  • タバコを吸わせて体に悪いことを知らせてからでなければ、タバコをやめさせることはできない。
  • 麻薬や覚醒剤をやらせて、心身ともにボロボロになってからでなければ、麻薬や覚醒剤をやめさせることはできない。
  • 自殺をさせてみてからでなければ、自殺を止めることはできない。

通常の思考なら、タバコを吸っている人も吸わない人も、麻薬や覚醒剤をやっている人もやっていない人も、自殺を試みた人も考えていない人も、共通にやめましょう、と呼びかけて、それがおかしいと思う人はいません。タバコ、麻薬、覚醒剤で体を壊してからでは手遅れですし、自殺してしまった人に自殺をするなと教える人はいません。当たり前のことです。

親鸞聖人、蓮如上人は、雑行をしている人もしていない人にも、雑行では往生できないから捨てよとしか教えられていないのです。一度雑行をさせてみて、などと愚かなことを仰る筈がありません。高森会長は、伊藤康善師、大沼法竜師、香樹院師以外の真宗関係の本を読んだことがありませんので、親鸞聖人、蓮如上人がどのように教えられているかを知らないだけのことです。もし知っていたら、恥ずかしくてこんな珍説を唱えることを躊躇するでしょう。

30年前の本願寺との法論の際、本願寺から、「親鸞聖人が獲信のために善を勧められた文証を出せ」といわれて、高森会長が七仏通戒偈や『観無量寿経』を示すという邪道振りに、本願寺は呆れました。それは、聖道門が法然上人を非難した内容そのままであるからです。

これまで何度かそれについては述べてきました。

「汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎」との明恵高弁の言葉を知っていますか?
会員との問答(聖道門と浄土門の違い)

しかし、このように説明する以外に、会員に善という建前で、金集め、人集めをさせる理由が無くなってしまいますので、外部からの批判を聞かないようにしているのでしょう。

前回の子供と瀬戸物の喩え話は、聖道門の人のことですが、それを親鸞会の会員に適用するとどうなるか。

力の弱い子供は言うでしょう。
「お母さんは、僕にはこのお皿1枚も持てないと言ってたじゃないの。こんなたくさんの皿なんか持てないよ。」
しかし、母親は言います。
「嘘を言ってはいけないよ。坊やは、これだけの皿くらい持てると本当は思っているのでしょう。一回持ってみなさい、そうすれば持てないことが判るから。」
子供は嫌がります。
「嫌だよ、持てないことくらい判ってるよ。僕、疲れてるから歩きたくもないんだよ。」
母親は子供に厳しく叱りつけます。
「そんなに甘えているなら、御飯もおやつも、これからは無しよ。持ちなさい。」
子供は泣きながら
「そんなの嫌だよ。じゃあ、お皿1枚だけ持つよ。」
子供に皿1枚を持たせて、
「まだ持てるでしょ。はいこれも。」
皿をもう1枚子供に持たせます。
「もう無理。許してよ、お母さん。」
お母さんは益々厳しく
「じゃあ、御飯もおやつも要らないのね。まだこんなにお皿が残ってるじゃないの。このお皿を落としたら、飲み物もおもちゃも無しよ。」

これが高森会長と会員とのやりとりです。

最近高森会長は、真実の善と雑毒の善について詳しく説明しているといいます。

真実の善はできないが、雑毒の善はできる。雑毒の善でもしなければ、良い結果は返ってこない

と。

会員は、真実の善ができないと判っています。判っていなければ、親鸞会の話など聞く訳がないです。雑毒の善ができるのだから雑毒の善をせよ、と言ったところで、往生・獲信となんの関係があると言うのでしょうか。関係を言えないから、

善をしなければ良い結果が返ってこない、真宗が衰退しているのは善を勧めないからだ

と的外れの説明しかできないのでしょう。
高森会長は根拠を出せません。ないからです。

なお、雑毒の善が宿善になるのであれば、善は間違いなくできるのです。雑毒の善ができるのなら、無善ではありません。善導大師が仰るように、「善根薄少」です。真実の善ができないことと必堕無間は、意味が違います。龍樹菩薩は、真実の善はできませんでしたが初地まで到達せられて六道を自力で出離されています。

高森会長が前回の2000畳座談会で

阿弥陀仏が無量光明土に生まれる足しにならない善を19願で勧めておられるのか?

という自問に対して

それは弥陀のお計らいだ
わからないから納得出来るように説明せよという人は弥陀より偉い人で、弥陀に救われる必要のない人だ

と思考停止を会員に要求しています。
このような聖道門的質問に対して、親鸞聖人は詳しく答えておられますが、聖教を読んだことのない高森会長は、愚問愚答をして会員を騙せたと得意気なのでしょう。退会者から見れば喜劇ですが、会員にとっては悲劇です。

さて、この子供はこの後、どういった選択肢があるでしょうか。

A.皿を放り投げて反抗し、母親に捨てられる。
B.適当なことを言って皿を母親に返し、その隙に自ら走り去る。
C.皿を持てば、いつか空から飴が降ってくることを期待して、泣きながら母親に従う。

虐待する母親に対して、子供はどれを選択するのがよいと思われますか。子供を虐待する母親しか知らなければ、しかないのでしょうが、普通の母親を知り、自分を保護してくれる優しい人がいることを知っているのなら、を選択して欲しいと思います。すでに多くの子供が、の方法で、この母親から逃れて、保護されています。

願わくば、虐待の母親の元を離れて、阿弥陀仏という間違いのない保護者の元に行って下さい。

posted by 鴻 at 05:09| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする
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