2013年01月25日

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り11

『顕真』2月号でも、「宿善と聴聞と善のすすめ」がまだ続いていますが、その内容は、弥陀の救いに値うまでの”方便”の必要性を必死に訴えているだけです。
この幼稚な理論の間違いは、これまでに述べてきた通りです。一言で言えば、善巧方便と権仮方便の違いが全く判っていないだけのお粗末さです。最近も以下のところで詳細に説明してきました。

「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の曲解
王舎城の悲劇が善巧方便
善巧方便がまだ判らない人のための補足説明
みのもんたが人気あるのは、断言するからだ。君たちも断言していくようにしなさい!
『歎異抄をひらく』の自己矛盾
『歎異抄をひらく』には、高森会長の本心が著わされています
”方便より真実に入れ”の正しい意味

方便については繰り返しませんが、今回もおもしろい内容がありましたので紹介しておきます。”餓鬼が寒林で骸を打つ”の話です。

 釈迦が林を遊歩中、餓鬼が泣きながら骸をたたいている。
 訳を聞かれると、
「人間界におった時、なぜ真剣に仏法を聞いてくれなかったかと、前生の頭の骨をたたいているのです」
と答えたと『仏説譬喩経』に説かれる。
 臨終に号泣しても間に合わない。死んで骸を打っても時すでに遅しである。

以前に『仏説譬喩経』の全文を紹介しましたので、読まれれば判るように、『仏説譬喩経』にはこの話はもちろんありません。似た話は、『涅槃経』にあります。原文は難しいので、Wikipediaにあるものを引用しておきます。

善星は、十二部経を受持読誦し四禅定を獲得したが、悪友である苦得外道(くとくげどう)に親近したために、四禅定を失い邪見を起し「仏無常なり、法も無常なり、涅槃もまた無常なり。衆生の煩悩と解脱には因果の理法はない」などと、仏の教えを否定するようになった。苦得外道はジャイナ教(六師外道の一、尼乾子=にけんし等ともいう)の教徒である。善星比丘はこの苦得に近親した。

善星は「苦得こそ真の阿羅漢」と言うと、仏は「苦得は阿羅漢に非ず」といった。善星は「世尊は証悟しているのに苦得に嫉妬するのですか」、仏「苦得が羅漢でない証拠に、彼は7日後に命終し、食吐鬼(じきとき、餓鬼の一種)になり同学の者がその屍を寒林に運んで置くだろう」と予言した。善星はこれを聞いて苦得にこの件を告げ食事に注意するように促した。これを聞いた苦得は断食して6日経ち、7日目に安心して黒蜜を食べて冷水を飲むと、腹痛を起こして命終した。そして同学の者が苦得の屍を寒林に運んで置いた。善星は苦得が死んだのを聞いて寒林に行くと、苦得は食吐鬼となり身を低くしうずくまって屍の側にいた。善星は苦得に事の顛末を聞くと、苦得は「釈迦仏の言ったのは本当である。善星よ、お前はなぜ仏の言を聞けないのか。もし信じなかったら私と同じようになるだろう」と言った。しかし善星は仏所に赴き「苦得は命終して三十三天に転生した」といった。仏は「悟りを得た羅漢が六道の天界に輪廻することはない、なぜ嘘をつくのか」と叱責すると、彼は「苦得は三十三天に生ぜず、食吐鬼となりました」と認めた。しかし善星はなおも「世尊の言はすべて不信である」と言い張った。

釈迦仏は、大衆に向かってこの話を教下し「我は善星が為に真実の法を説くも、彼は信受する心なし。彼は十二部経を読誦し四禅を得るも、悪友に親近して四禅を失い邪見を生じた。汝らがもし如来の真実語を不信するなら、彼は尼連禅河(にれんぜんが、ナイランジャナー河)にいるから、共に行って見るがよい」と言った。釈尊は迦葉菩薩らと共に赴いた。すると善星は釈尊を見つけると悪心を生じて、生身のまま阿鼻地獄に堕したという。

闡提の善星に対して、餓鬼界に堕ちた苦得が言ったことであり、『顕真』の内容とはずれています。
なおこの話は、日蓮宗系団体でよく使われるものです。これ以上は言わなくても、皆さんお判りになられると思います。

この話を通して、死んで必ず無間地獄に堕ちるのではないことが判ります。親鸞会は自分で一切衆生必堕無間を否定しているのです。

参考までに善星については、『教行信証』真仏土巻にも闡提の者として『涅槃経』を引かれています。

迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、如来は知諸根力を具足して、さだめて善星まさに善根を断ずべしと知ろしめさん。なんの因縁をもつてその出家を聴したまふ〉と。仏ののたまはく、〈善男子、われ往昔の初において出家のとき、わが弟難陀、従弟阿難・提婆達多、子羅羅、かくのごときらの輩、みなことごとくわれに随ひて家を出で道を修しき。われもし善星が出家を聴さずは、その人次にまさに王位を紹ぐことを得べし。その力自在にして、まさに仏法を壊すべし。この因縁をもつて、われすなはちその出家修道を聴す。善男子、善星比丘もし出家せずは、また善根を断ぜん。無量世においてすべて利益なけん。いま出家しをはりて善根を断ずといへども、よく戒を受持して、耆旧・長宿・有徳の人を供養し恭敬せん。初禅乃至四禅を修習せん。これを善因と名づく。かくのごときの善因、よく善法を生む。善法すでに生ぜば、よく道を修習せん。すでに道を修習せば、まさに阿耨多羅三藐三菩提を得べし。このゆゑにわれ善星が出家を聴せり。善男子、もしわれ善星比丘が出家を聴し戒を受けしめずは、すなはちわれを称して如来具足十力とすることを得ざらんと。

(現代語訳)

 迦葉菩薩が釈尊に、<世尊、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられるのですから、善星比丘が善い資質を失うだろうと、きっと知っておられたはずです。どのようなわけで、善星比丘の出家をお許しになったのですか>と申しあげる。

 釈尊が仰せになる。<善良なものよ、昔わたしが出家したばかりのころ、弟の難陀、従弟の阿難と提婆達多、息子の羅羅などが、みなことごとくわたしにしたがって出家して仏道を修めることになった。わたしがもし善星の出家を許さなかったなら、善星は一族のものとして次に王位を継ぐことになったであろう。そうなれば、思いのままにその力を使って、仏法を破壊したであろう。このようなわけで、わたしは、出家して仏道を修めることを許したのである。善良なものよ、善星比丘は、出家しなかったとしても、やはり善い資質を失ったであろう。そうすれば、はかり知れない長い間何の利益もないことになる。すでに出家し、後に善い資質を失ったが、戒律をたもち、長老や先輩や有徳の人を供養し敬い、さまざまな段階の禅定を修めるということは、善の因となる。このような善の因は善を生じる。善が生じたなら仏道を修めるであろう。仏道を修めたなら、ついにはこの上ないさとりを得るであろう。だから、わたしは善星の出家を許したのである。善良なものよ、もしわたしが、善星比丘が出家して戒律を受けることを許さなかったなら、わたしのことを、十力をそなえた如来と称することはできないであろう。>

闡提(断善根)の善星を通して、すべての人が闡提でないこともこれでお判り頂けると思います。

高森会長は、自分を大学者と見せようと、いろいろの話を”引用”していますが、悉く間違っています。それにしても、高森会長オリジナルの話と宣言すれば盗作と指摘され、引用と公言すれば根拠も内容も間違っていると非難され、どうしようもない善知識です。

ここまで嘘で固められた親鸞会を批判する者に、法的圧力をかけることに尽力している特専部の弁護士達は、批判者の主張を知っているのですから、通常なら辛い立場だと思います。もし辛くないのなら、講師部員並の知能ですね。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り12

『顕真』2月号にある「宿善と聴聞と善のすすめ」の結論として

 心のままにやりたい放題でもよいのだろうか。
朝晩の勤行もやってもやらなくとも宿善とは何の関係もないのだろうか。
 真摯な親鸞学徒なら最も真剣に知りたいことに違いない。
 その方角を親鸞聖人は、弥陀の十九願であり二十願だと教導されているのである。

と書いてあります。親鸞聖人の仰せと真逆です。途中が間違っていますから、結論が間違っているのは当然です。

二双四重の教判

でも書きましたように、19願・20願は漸教なのです。救われるのに、長い時間がかかる教えであるから、頓教の中の頓教である18願を願い求めよ、と親鸞聖人が仰ったことを根底から覆しているのです。

今まさに死なんとする人に、法施と財施を勧めている親鸞会の実態をコメント欄に頂きましたが、親鸞会は会員を今生で救われないようにしている、というよりも、最期の最期まで親鸞会に利用されてすべてを奪い取って捨てることしか考えていません。

死期の迫った人に、何を勧めるのか?

でも書きましたが、悪凡夫の臨終に釈尊が勧められているのは念仏だけです。自分が悪凡夫と思い、真宗を信じているのであれば『観無量寿経』のお言葉を素直に信じるべきです。象徴的な下品下生のところを紹介しておきます。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。

命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。

 この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。

 そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。

 そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

もちろん善導大師の『観無量寿経疏 玄義分』にも以下のような解説をなされています。

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

(中略)

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。

(中略)

下品下生とは、

これらの衆生は、善くない業おこないである五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。

とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

善導大師の教えをそのまま受け継がれた法然上人は『選択本願念仏集』

下品下生は、これ五逆の罪人なり。臨終の十念に罪滅して生ずることを得。
この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

下品下生とは、これは五逆の罪人である。臨終の十声の念仏で罪が滅して往生を得る。
この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と仰っています。
親鸞聖人は『唯信鈔文意』で更に詳細な解説をなされています。

「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。

「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』に「汝若不能念」と説かれているのは、五逆・十悪の罪を犯した人や、私利私欲のために教えを説いたものが、病の苦しみに阻まれて、心に阿弥陀仏を念じることができなければ、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。続いて「応称無量寿仏」と説かれているのは、この意味である。「応称」は、称えよということである。

『観無量寿経』に「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」と説かれているのは、五逆の罪を犯した人はその身に八十億劫の十倍の罪をもつことになるので、十回「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、このようにいわれているのである。「十念」というのは、ただ口に念仏を十回称えよというのである。このようなわけで、選択本願に「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と誓われていると『往生礼讃』にいわれているのは、阿弥陀仏の本願は、念仏するのがたとえ十回ほどであっても、みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、「十声」といわれているのである。「念」と「声」とは同じ意味であると心得なさいというのである。「念」を離れた「声」はなく、「声」を離れた「念」はないということである。

臨終の悪凡夫に善を勧めるのは、浄土仏教ではありません。臨終と言っても、平生と隣り合わせですから、平生から往生のために善を勧められてはいないのです。

親鸞会でも建前上は、善は往生の足しにならないと言いながら、結局は最期の最期まで善をしなければ必堕無間の解決はできないと脅迫しているのです。

オウム真理教とどこが違うのでしょうか?

教義上で反論があるならいつでも受けます。
しかし親鸞会のすることといえば、法律までも強引な解釈をして、批判者に圧力をかけることだけです。親鸞会の弁護士連中は、学歴は高くても全員思考停止しています。

posted by 鴻 at 05:06| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り13

『顕真』平成23年3月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」は、お粗末な内容というよりも如何に会員を騙すかに苦労している様子が見てとれます。

「安心問答」
顕真3月号の意訳がどう読んでも異訳になっている件

にも取り上げられていましたが、『教行信証』化土巻・要門釈のお言葉、

然るに濁世の群萌、穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり。
偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。ここを以て釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発して普く諸有海を化したまう。

の訳として

苦悩が絶えず、迷い深き人類は、数知れぬ外道邪教を逃れて、ようやく仏教にたどり着いても、因果の道理を信じて光に向かう者は、ほとんどなく無きに等しい。

内心は、みな外道に汚染され、善の勧めさえ非難する輩ばかりである。

悲しいこの人間の実態を見られた釈迦は、阿弥陀仏の十九願(福徳蔵)を『観無量寿経』一巻に集中して説き明かし、十方衆生にすべての善を勧められ、なんとか阿弥陀仏の十八願(絶対の幸福)まで導かんとご苦労なされたのである

としていますが、よくもまあ、ここまで大嘘が付けるものだと感心しています。丁度一年前に、mixiでこうへい氏(H講師)とるぅでる様氏、sutybi氏が法論した中心のお言葉で、高森会長と弘宣部がこうへい氏の代わりに文章を作っていたのですから、このお言葉の正しい意味を知らないはずがありません。

★親鸞聖人★ トピック 三願転入

当ブログでも昨年4月から6月までこのことを繰り返し取り上げてきました。
今回の騙しで一番酷いのが「半満・権実の法門」の意味です。

学問的な知識として一応述べておきます。

半満」とは、半字教と満字教のことです。『涅槃経』に、子供に文字を教える時に、最初は半字を教えて、後で満字を教えるということから、釈尊もお弟子に半字教から満字教を教えていかれた、とあります。ここで、半字教は小乗教、満字教は大乗教という意味になります。
権実」とは、権教と実教のことです。大乗教の中で、権仮方便の教えと真実の教えとがあるということです。
半満・権実」は、二双四重の教判でいえば、竪出・竪超のことです。
『教行信証』化土巻

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

(現代語訳)

 総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

あり、この「半満・権実」が「大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超」です。

『愚禿鈔』では

一には大乗の教、二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
 一には頓教、        二には漸教なり。

難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。

難行道 聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。

小乗教について、二教あり。
 一には縁覚教    一に麟喩独覚、二に部行独覚。
 二には声聞教なり。 初果・預流向、第二果・一来向、第三果・不還向、
           第四果・阿羅漢向、八輩なり。

にあたります。

権実」というと18願が実と思われるかもしれませんが、「難行聖道の実教」を指しています。従って、「半満・権実」で、聖道門のことを総称して仰っているのです。

これは当時、こうへい氏も認めていたことですので、陰で操っていた高森会長も弘宣部も知っているのです。
親鸞会で教学的にはほぼ完璧とまで絶賛されていた『教行信証講義』(山邊習学・赤沼智善著)の解釈では

然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し修道するようになっても、真に其の教へに入る者は甚だ得難く、如実の修道者は甚だ稀である。之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。

となっています。
阿弥陀仏は、浄土往生を願っている人だけではなく、浄土往生を願っていない聖道門を信じている人をも浄土往生させようとして、聖道門の人が信じられる19願を建てられたということを親鸞聖人が仰っているのです。

今、親鸞会が教えていることは19願だけです。18願のことなどどこかに忘れ去られています。
昔々会員であった方ならば覚えておられると思いますが、高森会長はよく以下のことを語っていました。

皆さんはどうしたら救われるかということを聞きたいと思われるでしょうが、親鸞聖人は『教行信証』全6巻のうち、5巻までは救われたらどうなるかについて書いておられ、残りの1巻だけにどうしたら救われるかについて書かれています。これは、救われた後どうなるのかを聞く方が、どうしたら救われるかを聞くよりも早く救われるからです。

残り1巻(化土巻)にどうしたら救われるかについて書かれてある、というのは間違いですが、少なくとも救われたらどうなるのか、18願について聞くことが救われる近道、とかつては言っていたにも関わらず、今は19願の話ばかり。もともと救われにくく話をしていたのに、更に救われないように話をしているようなものです。現実に、平生業成を昿劫多生業成の教えと公言しているのですから呆れたものです。

19願の話を聞いて救われるのなら、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が至る所に19願について書いておられる筈です。しかし、法然上人が19願について仰ったのは、『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)に

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とある位で、『選択本願念仏集』には言及さえありません。もちろんこのお言葉も、19願は「諸行之人」(聖道門の人)を18願に帰せしむための願という意味です。
蓮如上人は全く仰っていません。
親鸞聖人は19願について仰っていますが、19願を勧められたお言葉はありません。それは、mixiで高森会長、弘宣部、こうへい氏がそれを示せないでいる現状からも判ります。

教えをねじ曲げるのは、とことん平気なのが高森会長と親鸞会です。会員を騙して、お金を巻き上げること以外には考えていないのでしょう。少しでも間違いを正そうなんて、少しも思っていないようです。

当ブログを読んでいる高森会長、反論があればいつでもどうぞ。1年経っても、mixiで答えられないのですから、無理でしょう。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り14

『顕真』3月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」については、余りにもレベルが低いので無視しようかと思いましたが、シリーズものですので、一応述べておきます。

 人の顔に億差兆別の違いがあるように、人間の心はもっと複雑多岐にわたる。しかも強情我慢のウヌボレ屋で、真実のカケラもないのが十方衆生の実相である。
 それらを平等に絶対の幸福に救い摂るには、本師本仏の弥陀でも難中の難事、種々の方便が必要不可欠だったのだ。

途中の文章に問題がありますが、ここでは最初と最後が重要です。

人の顔に億差兆別の違いがあるように、人間の心はもっと複雑多岐にわたる。

種々の方便が必要不可欠だったのだ。

この2つは対応しています。
ここから判ることは、十方衆生はそれぞれ機が違うから機に応じて阿弥陀仏(及び釈尊)が方便も施して下さったということになる筈です。理解力のない高森会長と会員のために、もう少し判りやすくいえば、方便は十方衆生共通ではないということです。

ところがこの後は、いつものように、

 十八願(真実)からは、我々の諸善は間に合わぬ捨て物だが、十八願(真実)を素直に聞く者など、絶対ないと見抜かれた弥陀が、そんな者を救う(絶対の幸福)には、絶対必要不可欠と建てられたのが、十九・二十の方便願なのである。

としています。この後、延々とその説明が続きますが、この矛盾が判りますでしょうか?
十八願(真実)を素直に聞く者など、絶対ない」ということは、「人間の心は複雑多岐」ではないし、方便も「十九・二十の方便願」だけで、「種々の方便」は必要ないということになります。
では釈尊が八万四千の法門を説かれたのは何のためでしょうか?

『教行信証』化土巻

宗師の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分)といへり。

(現代語訳)

善導大師の説かれた『観経疏』によれば、「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。漸教も頓教もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができる」(玄義分)といわれている。

とあるように、機に応じてそれぞれの方便が必要であったから、それが八万四千の法門になったのです。仏教のイロハである対機説法ということを知っていれば、当たり前のことです。十方衆生が共通の機であるならば、八万四千の法門は必要ありません。
同じように阿弥陀仏は、それぞれの機に応じて18願・19願・20願を建てられたのです。簡単な話です。

以上のことが理解できなければ、仏教云々以前に、国語の理解力の問題でしょう。

高森会長のトリックは、誰も問題にしない「十方衆生」に拘っていることです。これまでに何度もその愚かな拘りについて論破してきましたが、同じことを何度も書くことは皆さんに失礼に当たるでしょうから、もしお判りでない方は

「親鸞会の邪義を正す」
会員との問答(聖道門の19願に対する見解・宿善)

を読んで下さい。

さてこの後には、性懲りもなく

「願海に、真あり仮あり」と、阿弥陀仏の本願に”真実の願”と”方便の願”のあることを明言され、十八願を真実、十九・二十の二願を方便と断定し、三願は決して無関係に孤立したものでないことを喝破されている。
「真」と無関係の「仮」もなく、「仮」と関係なき「真」もなし。「真実」から流出したのが「方便」だから、「真実」と無関係な「方便」などありえないのである。

と言っていますが、先程述べたことを踏まえれば、「方便」「」の使い方がおかしいことに気が付かれると思います。
これも何度も紹介していますが、源信僧都は『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

と仰り、それを親鸞聖人は『高僧和讃』源信讃

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と著わされ、それを『正信偈』

極重の悪人はただ仏を称すべし。

とされ、蓮如上人も『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と解説して下されています。
『観無量寿経』を読んだことがあるならば、これらの意味は容易に理解できると思います。善という方便は善のできる善人に対してだけです。善のできない悪人に善を勧められていることはありません。悪人には念仏以外の方便はないのです。つまり、悪人には19願の方便願は必要ないのです。悪人に善が必ず要る、19願が必要だと仰ったお言葉は、mixiでの法論で、示すことができず、高森会長、教学課、こうへい氏(H講師)は皆逃走しました。

ところで善の勧め、善の勧め、とうるさく言っている高森会長は善をしているのでしょうか?

豊田商事とは関係がない、と断言しながら「豊田商事破産後に親鸞会は豊田商事関係の献金から1億3000万円を破産管財人に返還している」(判例時報 1321号『豊田商事詐欺被告事件第一審判決』)
「正本堂にワシの部屋はなくてもよい」と言いながら、200畳の部屋。
F館は5階建て、と最後まで言い張って、完成したらやはり会長の部屋は6階にある。

こんなことは朝飯前で、仏法の解釈も簡単にねじ曲げるし、捏造もするわ、仏法者以前に、人間としてどうなのよ、と言いたいですね。

そういえば、全国の受刑者約2800人から、東日本大震災の義援金として、合計約2156万円(11日現在)の寄付があったそうですが、金額も人数も親鸞会とほぼ同じです。しかし受刑者は所持金や作業報奨金から義援金を支出したといいますから、全国の受刑者の方が親鸞会よりも遥かに善に励んでいるのではないですかね。

ましてや義援金の一部を横領する人物などに、善の勧めを説く資格はありませんよ。

posted by 鴻 at 05:02| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り15

前回の続きです。
『本願寺なぜ答えぬ』と同じことが『顕真』平成23年3月号にも書かれています。

これは『三経往生文類』にも説かれているが、いまは『愚禿鈔』の文を挙げておこう。

として『愚禿鈔』の以下の御文を出してます。

ひそかに『観経』の三心往生を案ずれば、これすなはち諸機自力各別の三心なり。『大経』の三信に帰せしめんがためなり

これが親鸞会の言っているような意味にならないことは、すでに

「親鸞会教義の誤り」
親鸞会は諸行往生

で説明されています。この御文の前後を読めば、断章取義であることが簡単に判ります。『観経』の三心、19願では化土往生にしかならないので、『大経』の三信、18願に帰しなさいよ、という意味です。日本語の理解がお粗末であるから、このような解釈になるのです。そのこともすでに

”方便より真実に入れ”の正しい意味

で述べている通りです。『三経往生文類』については、全く御文を挙げていませんが、挙げたら間違いが判るからです。『三経往生文類』の内容については

曲がった教えだな、曲がった人物だな、と見るのが真っ直ぐな見方です。

でも述べておきました。

さて、今回は新たに『改邪鈔』

三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心ぞと定め、『大経』所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさづけらるるところの仏智とわけられたり。しかるに、「方便より真実へ伝ひ、凡夫発起の三心より如来利他の信心に通入するぞ」とをしへおきまします祖師[親鸞]聖人の御釈を拝見せざるにや。

が加わりました。これはM野講師ではないと強く否定する人物がよく出す根拠で、親鸞会は、それを採用したのでしょう。これも先程の

”方便より真実に入れ”の正しい意味

を読んで頂ければお判りになると思いますが、「方便より真実へ伝ひ、凡夫発起の三心より如来利他の信心に通入するぞ」より」は捨てて、という意味です。その証拠にこの後には、

まづ能化・所化をたて、自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、今師(親鸞)御相承の口伝にはあひかなひはんべれ。

とあります。国語力のない高森会長と会員のために同じ意味のお言葉をまとめると

『観経』の至誠・深心等の三心
=自力の三心
=方便
=凡夫発起の三心
=自力

『大経』所説の至心・信楽・欲生等の三信
=他力よりさづけらるるところの仏智
=真実
=如来利他の信心
=他力

です。「より」を通ってとしか考えられない愚かさが、ここでも判ります。

また親鸞会が好きな『御一代記聞書』

蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。

を出していますが、この意訳がまた酷いです。

「蓮如上人が仰せになった。
『方便など要らないなどとは、言語道断言うべきことではない。恐ろしい大法謗である。方便からしか真実に入れぬと説かれた、親鸞聖人の教えが全く分かっていないのだ。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によってのみ弥陀の救いに値う(真実の信心を獲る)ことができるのである』」

方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」が「方便からしか真実に入れぬと説かれた、親鸞聖人の教えが全く分かっていないのだ」という意味になる訳がないでしょう。
方便を説くことで真実をより際立たせるという廃立の教えということです。
これは法然上人の『選択本願念仏集』にある

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。

諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

という廃立の教えを元に仰っているのです。『御一代記聞書』の意味を判りやすくいえば、

諸善という方便は念仏の素晴らしさを顕され、捨てさせるために説かれた。だから善巧方便の念仏によって真実信心を獲させていただけるのだ。

です。

方便については何度も何度も述べて来ましたが、復習されたい方は

「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の曲解

王舎城の悲劇が善巧方便

善巧方便がまだ判らない人のための補足説明

みのもんたが人気あるのは、断言するからだ。君たちも断言していくようにしなさい!

『歎異抄をひらく』の自己矛盾

『歎異抄をひらく』には、高森会長の本心が著わされています

これらも併せて読んで頂けるとよいと思います。

親鸞会のやっていることは豊田商事のペーパー商法と同様です。ないものをあるかのように装っているだけです。
会員は原文を読めないから、意訳の部分で騙そうという悪意が見え見えです。それを謗法罪というのです。

会員は馬鹿にされているのです。何を言っても簡単に騙されると見縊られているのですが、会員も知能を持った人間なら、少しは脳を使ってみてはどうでしょうか。

posted by 鴻 at 04:58| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする
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