2013年01月25日

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り16

『観無量寿経』を読んだことがない高森会長と講師部員は、創作の王舎城の悲劇しか知りません。『顕真』平成23年4月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」は、その創作王舎城の悲劇を長々と書き連ねているだけの、本当に中身のない文章でした。紹介するまでもないので、『顕真』からの引用は省略します。

正しく勉強したい方のために、原文に従って『観無量寿経』を簡単に解説しておきます。

韋提希が牢の中で、釈尊に懇願した内容は以下の通りです。

ときに韋提希、幽閉せられをはりて愁憂憔悴す。はるかに耆闍崛山に向かひて、仏のために礼をなしてこの言をなさく、「如来世尊、むかしのとき、つねに阿難を遣はし、来らしめてわれを慰問したまひき。われいま愁憂す。世尊は威重にして、見たてまつることを得るに由なし。願はくは目連と尊者阿難を遣はして、われとあひ見えしめたまへ」

(現代語訳)

こうして閉じこめられた韋提希は、悲しみと憂いにやつれはて、遠く耆闍崛山の方に向かい、釈尊に礼拝して申しあげた。
「世尊、あなたは以前から、いつも阿難尊者を遣わしてわたしをいたわってくださいましたが、わたしは今深く憂いに沈んでおります。世尊をここにお迎えするなどということは、あまりにも恐れ多いことでありますから、どうか目連尊者と阿難尊者をお遣わしになって、わたしに会わせてください」

釈尊に来て頂きたいと韋提希は言っていませんでしたが、釈尊は韋提希の元に行かれました。そこで韋提希が釈尊に言ったことは、

「世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。
やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて五体を地に投げて哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日、われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」

(現代語訳)

「世尊、わたしはこれまで何の罪があって、このような悪い子を生んだのでしょうか。世尊もどういった因縁があって、あのような提婆達多と親族でいらしゃるのでしょうか。どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たりしたくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください」

です。
韋提希は「憂悩なき処」へ「われまさに往生すべし」と往生を願ったのです。それで、釈尊が阿弥陀仏と諸仏方の浄土を見せられて、

仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣にして、いまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたはず。諸仏如来に異の方便ましまして、なんぢをして見ることを得しむ」と。
ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。

(現代語訳)

釈尊は韋提希に仰せになった。
「そなたは愚かな人間で、力が劣っており、まだ天眼通を得ていないから、はるか遠くを見とおすことができない。しかし仏には特別な手だてがあって、そなたにも極楽世界を見させることができるのである」

そのとき韋提希が釈尊に申しあげた。
「世尊、わたしは今、仏のお力によってその世界を見ることができます。でも、世尊が世を去られた後の世の人々は、さまざまな悪い行いをして善い行いをすることがなく、多く苦しみに責められることでしょう。そういう人たちは、いったいどうすれば阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるでしょうか」

と、韋提希が、自分は釈尊のお力で浄土を見ることができたけれども、仏滅後の衆生はどうすれば極楽浄土を見ることができるのですか、と釈尊に請うて説かれたのが、定善です。定善は、『定善義』

業縁に随ひて転じ、定想波を逐ひて飛ぶ。たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず。

(現代語訳)

身口意業が所縁の境にしたがって移り禅定の想も波のように動いて、たとい千年の命をかけても智慧の眼は開けない。

とありますように、極めて難しい行です。しかし、誰もできないということではありません。善導大師、懐感禅師、法照禅師は、定善ができた方と言われています。このことは

雑毒の善ができる下品下生???

でも述べました。
釈尊は定善を説かれている途中で、韋提希のために定善とは別に除苦悩法を説かれます。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴け、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説すべし。なんぢら憶持して、広く大衆のために分別し解説すべし」と。
この語を説きたまふとき、無量寿仏、空中に住立したまふ。観世音・大勢至、この二大士は左右に侍立せり。光明は熾盛にしてつぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色も比とすることを得ず。

(現代語訳)

釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「そなたたちは、わたしのいうことをよく聞いて、深く思いをめぐらすがよい。わたしは今そなたたちのために、苦悩を除く教えを説き示そう。そなたたちはしっかりと心にとどめ、多くの人々のために説きひろめるがよい」
釈尊のこのお言葉とともに、無量寿仏が突然空中に姿を現してお立ちになり、その左右には観世音、大勢至の二菩薩がつきそっておられた。その光明はまばゆく輝いて、はっきりと見ることができない。黄金の輝きをどれほど集めても、そのまばゆさにくらべようもなかった。

ちなみに釈尊は姿を消されたとはありません。
韋提希の獲信後も、釈尊は定善の説明を続けられていますから、韋提希に定善をさせるために説かれたのではないことが判ります。

定善は、極々一部の人しかできない行ですので、定善のできない人に対して釈尊は続いて散善三福を説かれます。
なお、三福の行福に布施の行が含まれますが、

三輪不浄の布施?の結末

でも述べたように、三輪清浄でなければ布施にはなりませんので、散善三福も易しい行ではありません。
それで散善三福もできない人に対して、念仏を説かれたのです。

つまり、往生の行として定善、散善、念仏という3つを機に応じて説かれたのが、『観無量寿経』です。
定善ができる人は定善をして往生を願いなさい、散善ができる人は散善をして往生を願いなさい、定善も散善もできない人は念仏によって往生を願いなさい、と教えられているのです。
これは『観無量寿経』を読んだことのある人であれば、同じ解釈になり、聖道門でも浄土門でも共通です。

さて、『観無量寿経』の結論として

仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。

(現代語訳)

釈尊は阿難に仰せになった。
「そなたはこのことをしっかりと心にとどめるがよい。このことを心にとどめよというのは、すなわち無量寿仏の名を心にとどめよということである」

と念仏1つを勧められたと教えられたのが善導大師です。
従って定善・散善のできない悪凡夫には、最初から最後まで念仏1つしか勧められていないのです。それが『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

です。

定善の内容を聞いて、定善は自分にはできると思った人は定善をするでしょう。
散善の内容を聞いて、散善ならば自分にはできると思った人は散善をするでしょう。
しかし定善・散善の内容を聞いて、自分にはとてもできないと思った人は、定善・散善ができると自惚れている訳もなく、往生するには念仏しかないのです。

こんな当たり前の理屈が理解できず、定善・散善ができないのにできると自惚れている極悪人が、全人類であると寝恍けたことを言っているのが高森会長です。

『観無量寿経』も読んだことがなく、仏教学の基礎である布施の意味さえも知らずに、あんな出鱈目な話を自信一杯お説き下さる方は、確かに”唯一無二”でしょう。

posted by 鴻 at 04:57| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り17

高森会長の説く珍説”善のすすめ”・”三願転入論”が、大沼師の劣化コピーであることは、御理解頂けたと思います。これを踏まえれば、『顕真』5月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」についての詭弁が簡単に判ります。

内容はといえば、これまでと同じ根拠を挙げて、原文と明らかに異なる意訳を創作して、会員を騙すことに必死になっています。古文を少しでも学んだ人であれば、その愚かな意訳に気が付く筈ですが、思考停止していると疑問さえ生じないのでしょう。

『顕真』5月号「宿善と聴聞と善のすすめ」は、最近のワンパターンである『一念多念証文』

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

で始まっています。参考までに、この御文は大沼師からのパクリではなく、除名講師からのパクリであることは以前に

自称獲信者との論争 続編

で述べました。
ただし『観無量寿経』、定散二善については、前回の大沼師の説明を利用して、意味をすり替えているだけの姑息な騙しです。

基本的なことを再度説明すれば、釈尊は機に応じて法を説かれました。機がそれぞれ違いますので、「八万四千の法門」になったのです。それを大まかに分類すると

1.聖道の機―聖道門
2.定散の機―定善
3.散善の機―散善
4.逆悪の機―念仏

ということです。したがって、どれ1つ不要な教えである筈がありません。
この聖道門、定善、散善をまとめて親鸞聖人は「浄土の方便の善」「要門」「仮門」「方便の門」と仰ったのです。聖道の機、定善の機、散善の機に対して、真実に導き入れるための方便として説かれた教えということです。これを「雑行」と言われていることも

雑行の意味も知らない喜劇の主役

で説明しました。つまり聖道の機、定善の機、散善の機に対して

雑行を捨てよ」=「方便を捨てよ

と教えられただけで、「方便だからせよ」と解釈することなどあり得ないのです。
もちろん逆悪の機に対しては、最初から念仏以外に勧められていないのです。

以上のことは何も難しいことではありません。基礎の基礎です。

『一念多念証文』の次に挙げているのが『浄土和讃』

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

ですが、『顕真』でこの意訳がおもしろいです。

弥陀が十九の願を建てられた意を、釈迦は『観無量寿経』一巻に詳述し、すべての善を定散二善で説き明かし、十方衆生に勧められている

おかしいところがもうお判りですね。「定散諸機をすすめけり」は「十方衆生に勧められている」ではありません。「定善の機、散善の機に勧められている」です。逆悪の機には諸善を勧められていないことを証明する根拠ですが、それを逆悪の機に諸善を勧められているとすり替えているのです。

疑り深い人の為に、同じ『浄土和讃』で「『観経』意 九首」とある観経讃に以下の9首を親鸞聖人は著わしておられますので、説明しておきます。

恩徳広大釈迦如来
 韋提夫人に勅してぞ
 光台現国のそのなかに
 安楽世界をえらばしむ

頻婆娑羅王勅せしめ
 宿因その期をまたずして
 仙人殺害のむくひには
 七重のむろにとぢられき

阿闍世王は瞋怒して
 我母是賊としめしてぞ
 無道に母を害せんと
 つるぎをぬきてむかひける

耆婆・月光ねんごろに
 是旃陀羅とはぢしめて
 不宜住此と奏してぞ
 闍王の逆心いさめける

耆婆大臣おさへてぞ
 却行而退せしめつつ
 闍王つるぎをすてしめて
 韋提をみやに禁じける

弥陀・釈迦方便して
 阿難・目連・富楼那・韋提
 達多・闍王・頻婆娑羅
 耆婆・月光・行雨等

大聖おのおのもろともに
 凡愚底下のつみひとを
 逆悪もらさぬ誓願に
 方便引入せしめけり

釈迦韋提方便して
 浄土の機縁熟すれば
 雨行大臣証として
 闍王逆悪興ぜしむ

定散諸機各別の
 自力の三心ひるがへし
 如来利他の信心に
 通入せんとねがふべし

   以上『観経』意

『観無量寿経』に何が説かれているのかを親鸞聖人は9首でまとめられたのですが、9首中8首は、逆悪の機である韋提希を取り巻く登場人物による18願の救いのドラマについてです。韋提希に対して定散二善の言及は全くありません。最後の1首に、「定散諸機」と、韋提希とは別の定散の機に対して、自力定散二善を捨てて他力に帰せよと教えられているだけです。

つまり、最後の御和讃は、先の『一念多念証文』の御文と同じことを仰っていることがお判り頂けると思います。

要するに、『観無量寿経』は逆悪の機に対しての他力の救いを説かれていることを親鸞聖人は強調され、補足として定散の機に対しては自力を捨てて他力に帰すことを教えられていると仰ったに過ぎないのです。

高森会長の邪義は、定散の機に対する補足説明を、逆悪の機に対しての話に大胆にすり替えるという構図です。

少しだけ思考を働かせれば、高森会長を鼻で笑うことができますが、思考停止したままでは、簡単に騙される奴だ、と高森会長から馬鹿にされたまま人生を終えることになるのです。

posted by 鴻 at 04:54| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り18

前回、『浄土和讃』観経讃9首を紹介しましたが、方便の意味がこの9首でよく判ります。

以前に

王舎城の悲劇が善巧方便

でも述べましたが、8首は善巧方便についてです。最後の1首だけが権仮方便です。
善巧方便は、真実を私たちに認識できるように表わして下されたものですので、真実そのもので立てるべき方便です。一方の権仮方便は、真実を受け入れようとしない機のためのに一時的に用いられるもので、真実を受け入れ願い求める機にとっては不要であり、捨て去るべき方便です。
親鸞聖人が、「種々に善巧方便し」と仰っているいるのは、王舎城のドラマのことです。

「雑行を捨てよ」=「方便を捨てよ」

の方便はもちろん権仮方便のことです。

ここまで理解できれば、聖道門、19願、定散二善という権仮方便が、18願での救いを願求している人に要るのかどうか、説明は不要でしょう。

さて、親鸞会が”善の勧め”・”三願転入の教え”の根拠にしている「十九の願のこころ、諸行往生なり」という頭註のある『浄土和讃』を見てみましょう。

至心・発願・欲生と
 十方衆生を方便し
 衆善の仮門ひらきてぞ
 現其人前と願じける

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり

最初の御和讃は19願を単に言い換えられただけです。
次の御和讃は前回説明した通りですが、阿弥陀仏の19願意から釈尊が定散の機に対して諸善を勧められたということです。
最後の御和讃は、聖道門での諸善でも、それをそのまま阿弥陀仏に回向したならば、それはすべて「往生浄土の方便の善」、つまり雑行になると教えられたものです。
もちろん

権仮方便、雑行だから捨てよ

であって、

方便だからせよ

となる訳がないです。

『顕真』5月号では、この最後の御和讃の意訳を

十九願の諸善万行のお勧めは、弥陀が我々を救う(十八願)ためのお計らい(方便)だから、信心獲得の方便(宿善)にならぬ善はないのである

としていますが、ずれているのです。
一年前のmixiでの法論で、こうへい氏が

浄土の方便の善=宿善

といってボコボコにされましたが、同じことを未だに言っているのです。

詳しくは

「浄土の方便の善」=「欣慕浄土の善根」

「浄土の方便の善」≠「善の実行」

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり

を読んで頂ければ、親鸞会には進歩向上というものがないことがお判り頂けると思います。会員さえ騙せれば、外部から何を言われても構わない、という姿勢ですが、これこそが無二の善知識の本性です。

最後の御和讃の正しい現代語訳は

諸善万行は、 本来、 聖道門の行である。 けれども、 この行によって浄土往生を願わせたいと、 阿弥陀如来が至心発願の誓いをお立てくださったので、 浄土往生のための方便の善とならないものはなかったのである。

です。ここは聖道門の人を浄土門に導き入れるための願であることを仰ったのですが、たとえ19願に留まったままであったとしても、方便化土の利益を阿弥陀仏が与えて下さるという、意味も込められています。それが『末灯鈔』

仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。

(現代語訳)
仏のご恩の深いことは、懈慢辺地や疑城胎宮といわれる方便の浄土に往生することでさえ、阿弥陀仏の四十八願の中に第十九願・第二十願として誓われているのです。そのはたらきがあるからこそ、思いはかることもできない楽しみにあうことができるのです。仏のご恩の深いことは、限りがありません。

です。化土往生を否定する高森会長には、「仏恩のふかきこと、そのきはもなし」は到底理解し得ないでしょう。自分のいうことに無条件で従った者だけが、救われるという超選民思想ですから、自分の恩を押し売りしているだけです。

先日、JR石勝線で特急火災がありましたが、車掌の指示に従わなかったために乗客全員無事でした。車掌の指示に従っていたら、死んでいた、と乗客は語ったそうですが、親鸞会も同じです。強欲で無知の指導者に無条件で従っていては、必堕無間になるだけです。退会者は異口同音に語ります。「高森会長の指示に従っていたら、念仏誹謗で無間地獄に堕ちていた」と。

現会員の皆さんは、これでも高森会長に従いますか?

posted by 鴻 at 04:53| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り19

『顕真』平成23年5月号では、前回の『浄土和讃』の後、”善の勧め”の根拠が並べられています。もちろん、断章取義、曲解、勘違いでしかありません。

これまで何度も述べてきた『唯信鈔』の宿善についての断章取義も相変わらずです。『顕真』5月号ではこのように書いています。

 『唯信鈔』には、弥陀に向っての善を懇ろに、こう勧められる。

(原文)
宿善の厚きものは、今生も善根を修し悪業をおそる。宿善少なきものは、今生に悪業をこのみ善根をつくらず
                   (唯信鈔)
(意訳)
「過去世、善に努めてきた者は、今生も悪を恐れ善に向かう。過去世に善に向かわなかった者は、今生も悪を好み善には背を向ける」

と教誡し、

ここだけ見れば騙されるかもしれません。宿善の意味については

「親鸞会の邪義を正す」
宿善の意味

でまとめてありますので、読んで頂ければ結構ですが、『唯信鈔』のこの部分に関して簡単に説明しておきます。

聖覚法印は、宿善を【過去世の善根】と理解すると矛盾があることを『唯信鈔』で指摘されたのです。それが上の部分です。
この理屈で言えば五逆の罪人は「宿善少なきもの」となりますが、その「宿善少なきもの」の五逆の罪人でさえも臨終の十回の念仏で往生できる宿善があったのですから、五逆罪を造っていない我々は、「宿善少なきもの」と思うのは間違いなのです。
つまり、平生に仏法を聞いていない宿善の少ない五逆罪を造った人でさえ、往生できるのだから、平生から念仏の教えを聞いていて、五逆罪を造っていない我々には宿善がもちろんあり、五逆罪の人よりもなお往生できるといえるのです。

阿弥陀仏の18願は、悪人を救うために建てられたもので、過去世に善人であったものを救うというものではありません。過去世も現在世も善のできない極悪人を救う、これが悪人正機です。

覚如上人は聖覚法印の『唯信鈔』から『口伝鈔』

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

と教えられています。
覚如上人も、宿善を【過去世の善根】という意味で使うことの矛盾を仰っています。
矛盾していますよ、と指摘したところを正しい解釈として紹介する親鸞会の汚さの典型例です。

親鸞会が”善の勧め”の根拠としているのは、ほとんどがこの断章取義です。たとえていえば、

「左へ行きなさい」という人があるがそれは間違いで、正しくは右へ行きなさいだ

という人があれば、右へ行けと勧められたとするのが正しいです。しかし、「」内の部分だけ断章取義すると、この人は左へ行くように言われた、と騙すことができるのです。人を陥れる時によく使う手段ですが、高森会長はまさにこれを多用しているのです。
『御文章』で唯一の”善の勧め”の根拠としている4帖目第3通

 蓮如証人も、

(原文)
これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修し、いかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり
               (御文章)
(意訳)
「いやしくも仏法を聞き、人間は老少不定の身と知れば、どんな小さな善根・功徳でも修めるようにしなければならないことである」

 些細な善でもおろそかにしてはならない、と訓戒されている。

も同じ手です。これについては

私は『教行信証』を読んだことがありません、と告白

等で述べました。蓮如上人が聖道門の考え方を仰った箇所ですが、それと18願とは違うと教えられているのに、やはり断章取義して蓮如上人が聖道門の考え方をされたことにしているのです。

多分以前には、この様な勘違いを多々していたのだと思いますが、これまで何度も指摘されて勘違いであったと知りながら、なおも会員を騙すための根拠に利用しているのです。

この他にも『末灯鈔』から御文を2箇所挙げていますが、造悪無碍の邪義の誡めと邪義の者に近付いてはいけないというお言葉を、”善の勧め”に歪曲しています。

完全に確信犯ですから大変に悪質なのです。

更には、会員を欺こうとこれらの御文を挙げた後、例の瀬戸物のたとえをわざわざ出しています。

これは

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り9

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り10

で詳しく述べておきましたので、これらを読んでもなお書いてくる厚顔無恥にはほとほと呆れます。
もちろんこの瀬戸物のたとえは大沼師からのパクリで、それは以下でも述べたばかりです。

兆載永劫の御修行を、金集め・人集めにまで貶める高森会長

このたとえの騙しの手法は、相撲で一番になった子供は、一人だけということですが、他の子供も全員力自慢と自惚れていると想定しているところであり、発想が極めて愚かでしょう。

それにしても弘宣部も教学課の講師部員も、揃いも揃って無能なのですね。高森会長に騙しの新しいアイデア1つも提案できないのでしょうかね。これでは社会に放り出されたら、全く役に立ちません。

生活の為に嫌々原稿を書いているなら、多少は同情しますけど。

posted by 鴻 at 04:51| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り20

『顕真』平成23年5月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」には、

 もし、”善の勧めが弥陀の救いの障害”ならば、十九願は要門どころか障門であり、仮門ではなく害門となる。
 定散二善を勧めた釈迦は法敵となり、「往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり」と教えた聖人も、弥陀の怨敵となるだろう。

と無知な暴言を書いていますが、善知識方が教えられたことは、18願に救われるには雑行を捨てよ、ということです。雑行とは、19願であり、定散二善のことであり往生浄土の方便の善のことです。18願の救いの障害になるから捨てよなのです。

このことは

「雑行を捨てよ」だけで、親鸞会を簡単に論破できます

雑行の意味も知らない喜劇の主役

後生のためには「善をするな、やめよ」と仰った善知識方のお言葉

で詳しく説明しましたので、そちらを読まれればお判りいただけると思います。
無知な会員を尤もらしい言葉で騙すことしか考えていないのです。mixiでも出た内容で、mixiでの惨敗を消し去りたい気持ちが、痛いほど伝わってきます。

この後、方便についての詭弁を展開しています。

 弥陀の救いで「方便」「仮門」と言われるのは、救われるまでの弥陀や釈迦の教導を言うのだから、方便が”要る”とか”要らぬ”とかの議論は馬鹿げている。「産前」のない「産後」など、あろうはずがないからである。

 方便が必要なければ、弥陀は十九に「修諸功徳の願」を建立し、釈迦は『観経』で定散二善を説き、聖人が「往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり」と『和讃』されるはずがなかろう。
 的々として示すお聖教の明証は、いずれも弥陀の勧める善だから、大いに努めるよう開導されたものばかりである。

こんなことを書いているのは、自力と他力の違いの判らぬ異安心の証拠です。子供を自分で産むとしか考えられないのが、決定的な間違いです。子供を産めない人が子供を賜わるのです。親鸞会は子供を産める人しか対象にしていませんが、阿弥陀仏の救いは子供を産めない大人の女性だけでなく、子供、年配者、そして男性にでも子供を授けるものです。子供とはもちろん信心のことです。
こんな愚かな譬えで自力の教えを説いても、親鸞聖人の教えとは無関係です。

しかしながら、子供を産める女性も当然いる訳ですから、そんな女性にも子供を授けさせるために、権仮方便を施されているのです。子供を産む可能性のない多くの人にはそんな権仮方便は最初から不要です。

思考停止の会員を騙す詭弁にはなっても、思考の回復している退会者を騙す詭弁とは程遠い御粗末さです。

 実行しなければ分からぬ結果だから、弥陀が五劫思惟の末に、「力一杯、もろもろの善(功徳)を修めてみよ」と、十九の願で善を勧められたのは、我々に実相を知らせる方法が他になかったからである。

これも大沼師からのパクリ損ないですが、男性や年配者の女性は、実行しなくても子供が産めないことは最初から判り切っています。
法蔵菩薩が御修行なされたのが六度万行と聞いて、自分も同じ行を修めようと思う人には、実行させてできぬことを知らせる方便が必要ですが、法蔵菩薩と同じ行などできる訳がないと思う圧倒的大多数の人は、実行しなくてもできないことは最初から判っています。

そして最後にまたまたお笑い勘違い根拠を出して説明しています。

 ここまで進んだ十方衆生を、親鸞聖人は、こう励まされている。

(原文)
【如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらもなおもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり】
            (正像末和讃)

(意訳)
「まだ十八の願の疑いは晴れないが、十九願の善の実践や二十願の念仏称えるまで進んだのは、とても素晴らしいことである」

 自力の善を勧める十九の願から、他力の名号(南無阿弥陀仏)の大功徳を説く二十の願へ進んだのは結構だが、二十願(果遂の誓)から十八願真実へ転入せよと、十方衆生を激励される聖人のお言葉である。
 同時に、弥陀が十八願・無碍の一道へ十方衆生を教導する、方向性の指授でもあろう。

これも昨年2月に、M野講師ではないと強く否定する一会員が、当ブログにコメントしてきてボコボコニされて逃亡した内容です。
まとめた内容は

誡疑讃を19願を勧められたお言葉と解釈して、真宗界から笑われていますよ

で書きました。昨年2月当時の詳しいやりとりを知りたい方は

典型的な断章取義教学のコメント欄

から読んでみて下さい。一言でいえば、この御和讃は20願成就文を言い換えられたもので、20願の行者を誉めたのでも、もちろん19願を勧められたお言葉でもありません。その逆で、20願の行者を厳しく誡められたお言葉です。本当に真宗界から笑われてますよ。

外部からボコボコニされて暴かれた詭弁でも、会員を騙すネタとして使えるならば、使えなくなるまで使ってやろう、という、まるで賞味期限が切れて腐った食品を会員に食べさせているようなものです。

親鸞会が仏法の団体でなく、高森会長が会員の後生を考えていないことだけは間違いありません。      

posted by 鴻 at 04:50| Comment(0) | 教義 | 更新情報をチェックする
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