2013年01月25日

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り21

最近の親鸞会では、なぜ”善の勧め”の根拠になるのか判らない『末灯鈔』のお言葉をしつこく出しています。『顕真』平成23年5月号にもあります。

煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。

どこをどう読んだら”善の勧め”になるのでしょうか。思考停止の会員は、何を出してどうせ読まないのだから、と高森会長は会員を馬鹿にしているのです。
この御文は、悪人正機の本願であるからどれだけ悪をしても構わない、という邪義に対して、その誤りを正されたものであり、止悪のことまでしか仰っていません。
もし、親鸞聖人が往生・獲信のために善を勧められていたとするならば、このような邪義が出てくること自体おかしなことです。
親鸞聖人の”善の勧め”に反していたとした場合の言い方は、

今まで善をせよとあれだけ言ってきたのに、どんな聞き誤りをしているんだ。悪をしてもよいどころか、命懸けで善に励むに決まっているだろう。

ということになるでしょう。少なくとも善に励むよう勧める文がある筈ですが、それがなく、悪を止めるようにしか仰っていません。
このことから、親鸞聖人は往生・獲信のために善を勧められていないことが判ります。
つまり、親鸞会が出した『末灯鈔』のお言葉は、”善の勧め”を否定する根拠でしかありません。

親鸞聖人の御心を想像しますと、表現に悩まれたのだと思います。
悪に誇っている人に対して、悪を止めて善に励むよう勧めることは、仏法者として当然なことですが、そのような言い方をしますと往生・獲信と善とが関係あるような誤解が生じます。雑行・雑善を捨てよ、と厳しく教えられたことと矛盾しているように受け止められかねませんので、親鸞聖人はこのような止悪の表現になされたのだと思います。

蓮如上人もそれに苦慮されて

高森会長の布教の目的は、名利以外にはあり得ない

でも述べたように、『御文章』3帖目第13通に、

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、(中略)そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

と表現されているのだと思います。信前信後を問わず「仁義をもつて本」とせよ、とは儒教の倫理道徳の善を勧められたものです。この善を往生・獲信と関連づければ世福になりますので、誤解を生じる可能性も否定はできませんが、蓮如上人は「後生のためには」と別にされていることで、その危険性を回避されているのです。

以前にも述べましたが、一応世福について再度説明しておきます。

『散善義』の最初

いま三福といふは、第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。ゆゑに世俗の善と名づく。

(現代語訳)

今三福というのは、第一福は、世間の善根であり、いまだかって仏法を聞かない人が、その性質が善であるので、自然に孝養・仁・義・礼・智・信を行ずるから世間の善と名づける。

とありますように、倫理道徳の善は世福になるのですが、『往生礼讃』

中輩は中行中根の人なり。一日の斎戒をもつて金蓮に処す。
父母に孝養せるを教へて回向せしめ、ために西方快楽の因と説く。
仏、声聞衆と来り取りて、ただちに弥陀の華座の辺に到る。
百宝の華に籠りて七日を経。三品の蓮開けて小真を証す。

(現代語訳)

中輩は中行を修める中根の人である 一日の斎戒をもって金蓮華に乗る
父母に孝養する善を教えて回向させ 西方に往生する因と説く
仏が声聞衆とともに来たり迎え ただちに弥陀の蓮華座のほとりにいたる
百宝の華に包まれて七日を経る 三品ともに華が開けて小乗のさとりをひらく

とありますように、倫理道徳の善を回向するから世福になるのです。回向しなければ単なる倫理道徳の善です。
つまり、倫理道徳の善を往生・獲信と関連付けなければ雑行にはならず問題はないのです。

親鸞聖人、蓮如上人は上記のようにぎりぎりの表現をされているのですが、万が一誤解したとしても、倫理道徳の善を往生・獲信と関連付けて世福を勧める程度になる筈ですが、高森会長はこともあろうに行福である六度万行(特に布施)を強要しているのですから、誤解とかの範疇を遥かに超えているのです。明らかに、故意に教えをねじ曲げているのです。

高森会長から話を何十年聞いても獲信できないのは、当たり前のことです。捨てるべき雑行を拾わせているのですから。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り22

書くのも馬鹿らしくなるほど、『顕真』平成23年6月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」は、幼稚な内容に終始していました。
問答形式になっているのですが、当ブログ及び「親鸞会の邪義を正す」の真似をしているようです。しかし、答えの根拠が文証ではなく、高森会長創作「王舎城の悲劇」で、笑えます。
『観無量寿経』に説かれていることについては、『観無量寿経』『観無量寿経疏』に基づいてこれまで当ブログで何度も何度も述べてきましたが、親鸞会の根拠は『観無量寿経』でもなく『観無量寿経疏』でもなく、親鸞会の創作珍説アニメです。

根拠はこれしかないのでしょう。マインドコントロールの会員にしか通用しない根拠です。

同じことの繰り返しですが、復習の為に『顕真』を少しずつ見てみましょう。

(疑難)
「弥陀の十九願は、聖道門の人を浄土門に導くためのものである。十八願の救いを求める人には必要ない」
「十九願は、聖道門に行き詰まって悩む未熟の機(人)を調育するためのものである」
「十九願の相手は、廃悪修善して浄土に往生しようとしている善機(善人)である」

(答え)
 十九願とか自力と聞くと、多分、家や欲を捨てて深山幽谷に入ってする、難行苦行を想像するのだろうが、大きな誤りである。
 弥陀が十九願を建てられた対象は、あくまでも「十方衆生」であって、決して特定の人たちではないのである。
 だから、親鸞聖人も、
「既に以て、真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり」
と、『教行信証真仏土巻』に教授なされている。
 十九願の相手を聖道門自力の行者と思う間違いは、『観無量寿経』の韋提希夫人を知るだけでも分かるはずである。
『観経』は、弥陀の十九願を釈迦が解説されたものであるからだ。

とあります。
珍しく、親鸞会批判者の主張を正確に記していましたので、その点は感心なことです。もちろん、主張には根拠があるのですが、それには全く触れてはいません。触れることもできないでしょう。なぜならここに出してある親鸞会批判者の主張は、親鸞聖人が仰ったことそのままだからです。

この議論がmixiで、こうへい氏(H田講師)及び高森会長が退会者と法論をしてにボロ負けの末逃亡し、挙げ句の果てにmixiのトピックごと削除しなければならなかった程の、親鸞会にとっては極めて都合の悪い大惨敗法論でした。
そこまで恥を晒しながら、まだ同じ主張を繰り返しているのですから、厚顔無恥なのか、強欲のなせる業でしょう。

この”疑難”の根拠については、当ブログでも相当述べてきましたが、

「親鸞会の邪義を正す」

”三願転入の教え”の誤り1

会員との問答(聖道門の19願に対する見解・宿善)

でまとめてありますので、確認されたい方は、そちらを御覧下さい。

『顕真』6月号では、この反論として唯一の文証『教行信証』真仏土巻のお言葉を出していますが、意味が全く違います。前後も紹介すると

仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。

(現代語訳)

方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」に示すので、そこで知るがよい。すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、報仏であり報土であると知ることができる。方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。

ここのどこを読んだら、19願を建てられた対象が特定の人たちではない、という意味になるのでしょうか?
阿弥陀仏のお慈悲によって、報土往生だけでなく、報土に往けない人をも化土に往生させて頂ける、という意味です。つまり、化土往生を否定する高森会長の説とは真逆のことを親鸞聖人が仰っている根拠になるのです。何を血迷っているのかと言いたいです。
同じ意味のことを『末灯鈔』

仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。

(現代語訳)

仏のご恩の深いことは、懈慢辺地や疑城胎宮といわれる方便の浄土に往生することでさえ、阿弥陀仏の四十八願の中に第十九願・第二十願として誓われているのです。そのはたらきがあるからこそ、思いはかることもできない楽しみにあうことができるのです。仏のご恩の深いことは、限りがありません。

と教えられています。化土往生できることを親鸞聖人が強調されている御文なのですが、そんな簡単なことさえも理解できない程の御粗末頭脳では、『観無量寿経』など読める筈もありません。
『顕真』では、この後、アニメ「王舎城の悲劇」の内容を書いているだけです。『顕真』4月号でも創作アニメを根拠としていましたので、本当にこれしかないのです。
詳しくは

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り16

を読んで下さい。『観無量寿経』『観無量寿経疏』と創作アニメとは、似て非なるものなのです。
大沼師のものとも異なります。そのことは

パクリでもない『観無量寿経』とは無関係のお伽話

で述べました。

それにしても文証を出せば全く理解できない無能振りをさらし、文証が出せないときはどこにも通用しない創作珍説だけの新興宗教教祖レベルの高森会長を公表しているだけ。

日に日に親鸞会のレベルが下がって行くようで、嬉しくもあり、情けなくもあります。

そのうちよくある新興宗教のように、オカルトや超能力要素が加わってくるかもしれません。

posted by 鴻 at 04:46| Comment(0) | 教義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月24日

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り23

『顕真』では、釈尊と韋提希とのやりとりについて、創作アニメと表現を変えているところがあります。よく読んでみると、大沼師の『方便より真実え 浄土真宗』からのパクリでした。とことん節操のない団体です。
2つを並べてみましょう。

『顕真』の続き

『観無量寿経』には、王舎城の悲劇の主人公、心想るい劣の韋提希夫人に、「弥陀の浄土へゆきたくは定善をせよ」と、まず、釈迦は定善十三観を説かれている。
 頭から、”極悪人のそなたに何ができるか”と本当のことを言っては、どんな者でもハラを立てて聞かないから、初めは、善人扱いされている。そして”そなたに定善できるかな”と、相手の心を慎重に窺っていられるのである。

 韋提希は釈迦の説法中も、「あんな不孝者の阿闍世を育てるでなかった」「あの提婆さえいなかったら」と、心の中で彼らを切り刻み惨殺している。
”これでは、心を静めて、阿弥陀仏を念ずる定善どころではない”と、韋提希は深く反省せずにおれなくなる。
 そんな韋提希に”定善ができねば散善を”と、釈迦は、九品を並べてみせられる。
 上品上生は、とてもじゃないが、中品下生の父母の孝養さえおぼつかない。
 誰よりも、かわいいはずの吾子でさえも、心の中では殺している。親など殺すは朝飯前の自己を知らされ、韋提希夫人は恐れおののく。

 定善、散善ともに落第。箸にも棒にもかからぬ下品下生の極悪人と照らしだし、弥陀の十八願、真実の救いに値わすのが、『観経』一巻の教説である。

一方、『方便より真実え 浄土真宗』では、

『観経』でも、浄土が見たければ定善観をせよと十三観を説き、韋提希の腹を照らして見せておられるのです。お前は定善ができるかいと心を覗いて見らるると、釈尊の説法を聞きながらも、阿闍世を育てるのではなかった。提婆の奴が阿闍世をそそのかして、私をこんなめに逢わしていると、心のなかでは相手をむしり殺しているではないか。これでは到底、観念のできる柄でないことを自覚するのです。観念ができないとすれば、散善をせよと九品を並べてみせられるが、自分は上品上生は及びもつかない、中品下生の孝養父母さえもできない、大切な自分の子供さえも心のなかで殺しているのだから、親など平気で殺しているのだ。詮じつめてみれば、自分は下々品の人間ではないか。それなら定善散善ともにできない、箸にも棒にもかからぬ人間だと自覚さして、こんな悪性な人間は、念仏より他に救われる道がないと自覚さすのが、釈尊の調機誘引の説法ではありませんか。

誰が見ても言い訳のできない明らかなパクリでしょう。使えるものは何でも使うの理念は結構ですが、これだけパクリについて非難されていながらも、なおパクリ続ける。しかも『方便より真実え 浄土真宗』を直接読んだのではなく、当ブログの5月28日のエントリー

パクリでもない『観無量寿経』とは無関係のお伽話

を読んでのパクリでしょうから、余りと言えば余りの節操のなさです。
『観無量寿経』でも、また創作アニメでさえも韋提希は散善を実践していないのですから、『顕真』との整合性が取れないのです。
大沼師は善ができると自惚れている人が善のできないと知らされる過程を、便宜上韋提希に置き換えて敢て説明をしただけなのですが、それを韋提希個人の体験として話をしたら矛盾以外の何物でもありません。韋提希は、定善もしていませんし、散善を説かれる前に獲信しているのですから、散善もせず、散善のできないものと知らされて救われたのではありません。当たり前のことです。

会員は、この『顕真』の説明を読んで、アニメとの違いを疑問に思わないのでしょうか?

後の問答でも、韋提希が散善を実地にやらせで落第であることを知らせたとあります。
トップが狂っていますから、言うこともころころ変わりますし、この原稿を書いた講師部員も大沼師の著作をパクッて、本当に狂っています。

くどいようですが、一応説明しておきますと、龍樹菩薩のように聖道門の修行ができる方もあれば、善導大師のように定善ができる方もありますし、親鸞聖人が仰っている上品上生の往生を遂げられた智覚禅師のような方もあるのです。聖道の修行のできる人に聖道門を説かれ、定善のできる人に定善を説かれ、散善のできる人に散善を説かれた対機説法ということです。どこにも何の矛盾もありません。
実際、『観無量寿経』は韋提希だけに説かれたのではなく、『法華経』の説法を聞いていた聴衆にも説かれているのです。

王舎城の悲劇が善巧方便

でも書きましたが、『観無量寿経』は韋提希のいる牢で説かれた後、耆闍崛山で再度説かれています。

そのときに世尊、足虚空を歩みて耆闍崛山に還りたまふ。そのときに阿難、広く大衆のために、上のごときの事を説く

(現代語訳)

こうして釈尊は大空を歩んで耆闍崛山にお帰りになり、阿難は山上で、そこに集うすべてのもののために、この釈尊の教えを説き聞かせた。

定散二善が、聖道門の人のために説かれていることは、ここでも判ります。定散二善は聖道門の人、定散諸機のために説かれ、念仏は悪人のために説かれていることが『観無量寿経』を読んでも判ります。

猿でも判るように言えば、『観無量寿経』は聖道門の人や善凡夫に定散二善を説かれ、悪凡夫には念仏が説かれてあるということです。これを間違えて、悪凡夫の為に定散二善を説かれたと珍解釈をして信じているから、信心決定できないのです。
これを法然上人は『勅伝』で

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

と御教説くださっているのです。

『観無量寿経』も『観無量寿経疏』も読んだことがなく、また読めるだけの能力もなく、大沼師の著作を当ブログからパクルことしかできない無能集団では、今回のエントリーも理解不能でしょう。

posted by 鴻 at 22:58| Comment(0) | 教義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り24

『顕真』平成23年6月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」には、疑難と答えが3つありますが、1つ目については前々回と前回で述べました。後の2つは共に、「雑行」についてです。
いつものヘンテコ理論ですが、一応紹介しておきます。

(疑難)
「親鸞聖人は、雑行を捨てよと教えられているのだから、諸善をする必要はない。善を勧めるのは間違いだ」

(答え)
 真宗の人々に、こんな誤解が多い。もし、これが浄土真宗の教えならば、布施(親切)や精進(努力)、父母の孝養などは、必要ないからするなという、放逸無慚な怠け者を作るのが親鸞聖人の教えになるだろう。
 これらはみな、仏法で説く諸善であるからだ。

 これは全く、「雑行」というものを知らない人の発言であることは明らかだが、こんな聞き誤りが、結構多いのが現状である。
 その元は、どこにあるのか解明しよう。

「雑行」とは、「弥陀の往生浄土の救いを求めてする、もろもろの善」をいうのである。
 仏教で説かれる「諸善」が、悪いはずがないのだが、なぜその「諸善」を、「雑行」と嫌い、捨てよと言われるのか。

 それは「自力の心」で行うからである。「自力の心」さえ廃れば、「諸善」は「雑行」とも言われず、捨て物でもなく、「御恩報謝の行」となり、身を粉に骨砕きてもの、恩徳讃の活動になるのだ。

当ブログをしっかり読んでいる割には、以前と全く同じことしかいえないのですから、やはり無能集団なのでしょう。

「雑行」と「自力の心」については当ブログで5月に集中的に解説しておきました。

「雑行を捨てよ」とは、親鸞会の主張する善の勧めを捨てよ

親鸞会の主張を徹底的に否定されたのが親鸞聖人

「雑行を捨てよ」だけで、親鸞会を簡単に論破できます

雑行の意味も知らない喜劇の主役

18願の「十方衆生」の意味さえ知らない

後生のためには「善をするな、やめよ」と仰った善知識方のお言葉

高森会長の雑行の勧め

高森会長の布教の目的は、名利以外にはあり得ない

これらを読みながら、同じことしか言えないのですから、これ以外には、ヘンテコナ譬え以外は思いつかないような知能なのです。「雑行」というものを知らない人のために、高森会長が過去にどんなことを書いているのか覚えていないでしょうから教えてさしあげます。
『会報』5集には

雑行とは第十九願では修諸功徳『観無量寿経』では定散二善、三福九品、その他では諸善万行、六度万行、万行諸善、一切諸行といわれているものである。

と書いています。今ではいろいろと訳の判らないことを言っていますが、『会報』に書いてある通りのものが「雑行」なのですから、高森会長も講師部員も「雑行」を勧めていることは名実共に間違いないことなのです。
もちろん、高森会長は自分で何を書いたのかよく判っていないと思います。なぜならこれも盗作だからです。

大沼師の『法界』には

雑行とは第十九願では修諸功徳、観経では定散二善、三福九品、その他では諸善万行、六度万行、万行諸善、一切諸行である。

とあります。見事に一致しています。理解もせずにまる写しているから突っ込まれるのですが、19願、定散二善、諸善万行は、「雑行」以外の何物でもありません。一応説明しておきますと、これらの「雑行」は、「自力の心」を必ず伴うものです。「自力の心」なしでは成り立ちません。

「自力の心」のない善を、世俗の善というのです。ですから、蓮如上人は『御文章』3帖目第13通に、

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、(中略)そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

という言い方で、倫理道徳である儒教の善を往生・獲信とは無関係に勧められているのです。『顕真』でいっているように、仏教で説かれる「諸善」を勧められていないのです。なぜなら、それが「雑行」であるからです。
従って、親鸞会がもし本気で善を勧めたいのであれば、蓮如上人と同様に、儒教の善(仁・義・礼・智・信)を勧めるでしょう。しかし、これらは言葉では勧めていても、実際には”後生の一大事のためには、世間事を犠牲にしてでも”と倫理道徳の善を反故にする”悪の勧め”となっているのです。

当ブログでは、根拠に基づいてしか説明をしていません。その根拠に明白に反する主張を高森会長と親鸞会が続けているのには、理由があります。
倫理道徳の善では、お金も人も集められないからです。実に判りやすい思考です。

親鸞聖人、蓮如上人の教えられた通りに話をするつもりが少しでもあるならば、

・三願転入の教え
・宿善論
・善をしなければ信仰が進まない
・微塵の善もできないものと知らされるまで善に励まなければならない

などの「自力の心」を捨てて、法律を守り、親兄弟子供を喜ばせ、職場や学校の関係者から好かれるような言動をしなさい、ボランティアに積極的に参加しましょう、と言えばいいのです。

まあ、盗作・浄財の私的流用・不倫・万引き・惨敗法論の捏造改竄等を平気で行っているような面々には、無理な話ですね。頭の中は、どうやって会員を騙し続けて、お金を捲き上げるか、しかないのです。

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『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り25

『顕真』平成23年6月号では、前回に紹介したヘンテコ理論の後に、これまたヘンテコ譬え話を出して、詭弁に勤しんでいるようですが、余りにもレベルが低いので譬え話は省略します。どうしても知りたい方は、

「親鸞会のトリック」
暗示にかけようとする表現〜『顕真』6月号から〜

で譬え話が1つだけ取り上げられていますので、読んでみて下さい。

「雑行」についての結論として、『顕真』6月号では以下のことを書いています。

 微塵の善もできず、十方諸仏に見捨てられた極悪人と知り抜いた弥陀が、「われ一人助けん」と立ち上がり、「われを たのめ、必ず救う」と誓われて、幾億兆年の修行の末、十方世界の善根を南無阿弥陀仏の中に結実し、「どうか、そのまま受け取ってくれ、お前一人のために創ったのだ」と、今現在、叫び続けられているのである。

 その弥陀の本願を疑い、悪しかできぬ者とは微塵も思えず、何とかすれば、何とかなれると自惚れている心を「自力の心」というのである。
 古より、「弥陀を殺すに刃は要らぬ、腐った頭で考える」といわれる。
「弥陀の救いに、己の善を役立たせよう」とする「自力の心」こそが、阿弥陀仏を殺す凶刃なのである。
「雑行を捨てよ」とは、この「自力の心」を捨てよということであって、「もろもろの善をするな」「諸善を捨てよ」ということでは断じてないことを牢記しなければならない。

(原文)
 【
仏智うたがう罪ふかし
  この心おもいしるならば
  くゆる心をむねとして
  仏智の不思議をたのむべし

         (正像末和讃)
(意訳)
 「弥陀の本願を疑うほど
  恐ろしい大罪はなし
  その罪をふかく懺悔して
  本願の不思議を信ずべし」

ここの部分の字面だけを見れば、間違っていないように錯覚するかも知れませんが、「腐った頭で考えた」文章になっています。

まず、「微塵の善もできず、十方諸仏に見捨てられた極悪人と知り抜いた弥陀」とありますが、これは誰のことでしょうか?またこの善とは何でしょうか?
十方衆生が下品下生ということを親鸞会では強調していますので、これはすべての人のこととして言っている筈です。そうなると

『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

は、嘘になります。龍樹菩薩が極悪人だなどというのは、外道の者の言葉でしょうし、智覚禅師が上品上生の往生を遂げられたと親鸞聖人が仰ったのも、嘘ということになります。大体、十方衆生が五逆謗法の者であると仰った善知識方は一人もありません。

これまでにこの間違いを何度も指摘しているのに、「必堕無間」と脅しをかけなければならないので、どうしても修正できないのでしょう。

また、「微塵の善もできない」の「善」とは、どんな善のことでしょうか?
これについては、いつも曖昧な説明ですが、「真実の善はできないが雑毒の善はできる」というのが高森会長の主張ですから、この高森会長の言葉を信用するなら、「真実の善は微塵もできない」という意味になって、「雑毒の善である定散二善はできる」ということになります。韋提希は定散二善ができなかったと説明していますが、結局私たちには「雑毒の善である定散二善はできる」ということで、韋提希と私たちとは違うことになり、矛盾が生じますが、どういうことでしょうか?まさか、定散二善が真実の善だとでも思っているのでしょうかね。
何度も教えてさしあげているように、下品上生以下は、雑毒の善もできない者のことですから、雑毒の善ができる人は、中品下生以上になります。

雑毒の善ができる下品下生???

ここで詳しく述べましたが、これについても一切反論できません。
高森会長の言っていることは、とにかく矛盾しかないのです。マインドコントロールされた会員以外には通用しない腐った理論です。

ついでに教えておきますと、『観無量寿経』の中で、頻婆娑羅王は目連尊者から八斎戒を授けられ、阿那含と成っています。詳しくは

釈尊はなぜ韋提希のもとへ行かれたのか?

で解説しましたが、つまり頻婆娑羅王は阿那含と成れる善人であったということです。韋提希とは明らかに機が違うのです。対機説法の意味が少しは理解できましたか、高森会長。

以上でもお判りのように、「弥陀を殺すに刃は要らぬ、腐った頭で考える」の珍教義が高森邪義なのです。

微塵の雑毒の善もできない極悪人には、「他の方便なし、ただ弥陀を称せよ」しかないのです。当たり前の理屈が判らないのが、腐った頭です。

最後に挙げている『正像末和讃』も、意味も判らず適当に出して会員を騙そうとしているのでしょうが、解釈が根本的に間違っています。
この御和讃は誡疑讃と呼ばれる二十三首の最後の御和讃です。
誡疑讃は、19願・20願を信じていることを「仏智うたがう罪ふかし」と厳しく誡められたもので、19願・20願を信じている人は報土往生はできない、化土往生しかできないことを、くどいほど教えられています。
つまり、これらの御和讃は、三願転入の教えとかいって、19願の実践に拘っている親鸞会の会員に対して、19願を捨てて、18願1つを早く信じなさい、と教えられた親鸞聖人のお言葉です。

腐った頭で考えた腐った教えを会員は聞かされ続けていますから、高森会長を捨てない限り、自力の心が廃ることはあり得えないことを牢記しなければならない。

posted by 鴻 at 22:54| Comment(0) | 教義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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