『顕真』平成23年6月号では、疑難と答えがもう1つありますが、2番目の「雑行」についての続きで、その根拠が、創作アニメといつもの親鸞会理論だけです。文証はありません。
愚かな理論ですが、一応紹介しておきます。
「雑行」や「自力の心」と言われるものは、後生が問題になり、弥陀の救いを求めて初めて現れるものだから、後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベルでは、チンプンカンプン分かるものではないのである。
ちょうど、ヨチヨチ歩きの女の子に、産前はこうだ、産後はああだと言っても、チンプンカンプンと同じこと。
後生が苦になり驚いて、弥陀の救いを求める心(自力の心)が起きるまで、信仰が進んでもいないのに、「雑行」を捨てよも、拾うもあったものではない。チンプンカンプン、そらごとたわごとでしかないのだ。だから「雑行」は、弥陀の救いに諸善を勧める、十九願よりしか現れようがないのである。
その「雑行」が分からぬのは、十九の願の門戸にも立っていない証しであろう。
この弥陀・釈迦の「方便の善」が分からねば、「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ」「諸善は必要ない」と、誤解するのも無理からぬことといえよう。七高僧が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」ではなく、何とかすれば、何とか助かると思って、諸善万行をやっている「自力の心」のことである。
と書いています。相変わらずですが、教学が無くても常識的に考えればおかしさに気が付かれると思います。
でも書きましたが、親鸞聖人、蓮如上人がおられた当時の日本の人口は現代の15分の1から20分の1くらいでした。その中で親鸞聖人の教えを聞いていた人が関東だけで数万人、蓮如上人の時はそれ以上の人に話をされていたと思われます。親鸞会とは比べ物にならない多くの人に対して、親鸞聖人、蓮如上人は、往生・獲信のために善を勧められていません。親鸞会理論でいえば、当時の人は「後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベル」の人はいなかった、あるいはいても、数えるほどしかいなかったということなのでしょう。もっといえば、親鸞聖人、蓮如上人は御著書、お手紙を後の人の為にたくさん残しておられますが、後の人は「後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベル」の人はいない、あるいは無視された、ということになります。
一方で現代の人、特に親鸞会会員は、「後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベル」の人ばかりだから、善を勧めなければならないのだそうです。これに納得できる人は、自称本願寺の布教師と同じ知能レベルの人でしょう。
雑行が判らなければ雑行は捨てられない、など幼稚な騙しでですが、そのことはすでに
でも書きましたが、たとえていえば、
・タバコを吸わせて体に悪いことを知らせてからでなければ、タバコをやめさせることはできない。
・麻薬や覚醒剤をやらせて、心身ともにボロボロになってからでなければ、麻薬や覚醒剤をやめさせることはできない。
・自殺をさせてみてからでなければ、自殺を止めることはできない。
と言っているのと同じです。
これまで何回か紹介していますが、『一念多念証文』の
「一心専念」といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。
そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。
しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。
さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。
が親鸞会ではチンプンカンプンなのでしょう。「余の善」と「余の仏」とは同格です。「一切の諸神・諸仏・菩薩」と「万善万行」とは同格です。
諸善に向うことも、諸神・諸仏・菩薩に向うことも共に「雑行」です。諸神・諸仏・菩薩は、親鸞会でも最初に捨てよと教えていますが、往生・獲信のために諸善をせよ、というのは、矛盾です。
なぜなら、五雑行が問題になっていない会員には、問題になるまで五雑行を勧めねば筋が通りません。筋を通すならば
寝ているものに転んだということがないように、五雑行をしていない者に、五雑行を捨てたということはありません。
となる筈ですが、これは絶対に言いません。仏教では、阿弥陀仏以外の諸仏に礼拝、称名、讃嘆、供養することも勧められていますので、諸善万行だけを往生・獲信のために勧める理由が見当たりません。
親鸞聖人は御自身の体験を『教行信証』後序で
しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。
と仰っています。「自力の心を捨てて」ではなく、「雑行を捨てて」と仰ったのは、「雑行」を勧めている聖道門の学僧に対する反論のお言葉です。ここで親鸞聖人は「心」ではなく「行」自体を捨てられて18願に救われたことを宣言なされ、法然上人の三選の文
はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。
の正しさを証明されたのです。
法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が捨てよと仰る「雑行」は、「諸善」「万行」そのものの「行」です。それを踏まえた上で、往生・獲信と無関係なこととして世間の善である倫理道徳を本としていきなさいと教えられているのです。
従って、紅楳英顕師が30年も前に指摘されている
「破邪顕正や財施を獲信のための宿善として修せよ」とある文証は、未だに何等示されていない。
は、今でも有効なのです。出世間の善である「破邪顕正や財施」を「獲信のため」に勧められた文証を、30年後の今、示したら如何でしょうか、高森会長。